大井川通信

大井川あたりの事ども

詩と詩論

岡庭と吉本①

吉本隆明は詩人であり、詩についても多く論じている。前の世代の戦争詩を批判したり、70年代には、同時代の詩を「修辞的現在」として総括したりもした。

岡庭昇も、詩人として出発し、2冊の詩集と2冊の詩論を編んでいる。「芸の論理」による60年代詩の批判は、吉本に先んじていた。

青い鳥三羽

シモノハラ池のふちで、ルリビタキを見つける。頭も羽もちょっとくすんだような青だが、脇のオレンジ色と、白い眉がかわいい。

小川の水面ギリギリをカワセミが真っ直ぐに飛ぶ。背中の縦の青いラインを日に輝かせて。

遠くの民家の屋根で、イソヒヨドリが庭をうかがっている。双眼鏡で、黒みがかった青い身体と、胸の濃い橙色が確認できた。

 

 

数珠と呪術

長男が友達にしたという笑い話。

夜、リビングに入ると、母親が大好きな心霊番組を見ていたのだが、その姿というのが、画面に向かい、数珠を握って拝んでいたというのだ。

そして、こちらは少し怖い話。

長男が彼女を家に泊めてしばらくの間、邪気を払うために、母親が玄関に線香を焚いていたという。

初詣

 

戦中派の父にとって、天皇制と神道は不倶戴天の敵だったのだろう。我が家では、初詣に行く習慣すらなかった。 

そのせいか僕は今でも、本心から何かに祈ることができない。

博多の街で神仏に囲まれて育った妻と暮らして、そう思う。

 

岡庭と吉本

岡庭昇を読み直すときに、吉本隆明の軌跡を参照軸にすることもできるだろう。それぞれの読者からは異論があるだろうが、両者には意外に多くの共通点がある。

一知半解を承知で、その共通点を挙げていく。狙いは、「戦後思想の巨人」に照らして、岡庭昇の仕事の大きさを示すこと。

父の遺影

無神論の家風のせいで、帰省しても取ってつけたような仏壇に手を合わせることもしなくなった。

家を出て30年、父が死んで10年。

母と姉が選んだ、とびきりの笑顔の父の写真を見上げて、はじめて自然に言葉がかけられるように思えた。

 

 

歯車

急に視界の中心が盲点のように見にくくなり、視野の左側上部でさざなみが立つようにチラチラしだすが、今回はそれが広がらないうちに収まった。

閃輝暗点だろう。芥川龍之介が自殺の年に『歯車』で描いた症状だ。

ただし僕の場合、どちらの目にも同じ形で、歯車は回っている。

アトリ

ゴマみたいな群れが枯れ田から飛び立って、うねるように左右に舞ってから、ウサ塚の木々に戻った。

橙色の胸、白い腹、黒と灰色の頭と背。

スズメかと思って双眼鏡をのぞくと、大陸からの訪問団アトリだ。