「例えば映画なら、ストーリーに反するような事物や撮影機材がスクリーンに映り込むことは、原則ありえないでしょう。しかし、演劇は、反ストーリー的な要素を排除できないし、むしろそういう不純物の現前が演劇の存在意義、立脚点ともいえるわけです。 演出家の岡田利規は、このことを、「役者と役柄の一致」という約束は正視に耐えない嘘だ、という言葉で説明しています。役者と役柄のズレが、むしろ面白いのだと。ところで、僕は、この事態を、記号(舞台)と意味(ストーリー)の二重性と呼びたいわけですが、映画や小説と共通の課題、つまりストーリーに何らかの中心性、求心力を持たせる必要とは別に、そこからはみ出してしまう舞台の側を秩序立てる仕掛けが必要になってきます。それがストーリーとは一見無関係でありながら舞台に存在し続け、舞台を魅力あるものにするゼロ記号の存在であり、優れた演出家は感覚的にそれを巧みに創出し、使いこなしているように思えます。例えば、ある芝居では、それは舞台に林立する竹の棒であり、役者たちは、棒の位置を自在に変えつつ、演じていきます。ゼロ記号は、役者たちが操作する特徴的な舞台装置である場合が多いのですが、もっとシンプルな舞台では、役者たちの特異な動きや発声自体がゼロ記号となって、舞台にリズムを作り、秩序を生み出すこともあります」
岡庭と吉本(再論)
どうだろうか。岡庭昇と吉本隆明は、その思想の骨格において、その批評の構えにおいて、似ているといえないだろうか。
そうでないという人は、考えてみてほしい。
詩人として出発し、影響力のある詩論を書き、ジャンルを超えて文学に精通し、その根底に独自の原理論を持っていた者。80年前後の社会の構造転換に身を挺して臨み、批評の方法や対象を大きく変え、90年代には宗教の問題を、危険地帯に身を置いて論じた者。一貫して制度化された学問の庇護の外で、自らのメディアをも組織しながら、時に罵詈雑言を交えて、言葉を繰り出し続けた者。
吉本隆明が当てはまるのに異論はないとして、岡庭昇以外、この全条件を満たす批評家、思想家を僕は思い浮かべることはできない。
吉本隆明を読む人たちは、その片言隻句をもって彼を否定することはしない。彼の誤りや欠落さえも、吉本の全思想の中に位置づけて評価するだろう。
だとしたら、岡庭昇の批評も、その言説の一部によってではなく、彼が戦後を生き抜いた思想の全体において受け取める必要があると思う。
80年代の初め、岡庭の読者になった僕は、多くは吉本の尻馬に乗って岡庭をたたくことをよしとする風潮にうんざりしていた。あれから30年。もう吉本支持者も老いてしまったし、岡庭を軽んずる声も消えてしまった。今ようやく、批評家同士の関係性や世間的な格付けとは無縁に、その思想そのものを冷静に検討できるようになったのかもしれない。