大井川通信

大井川あたりの事ども

ため池のカイツブリ(その2)

久しぶりの大雨で、水抜きされたため池の底の水たまりも、倍くらいの大きさに広がって安心した。しかし二日もすると、もとの大きさに戻ってしまう。さらには、小さいながらも楽しい我が家というふうに水たまりの真ん中に浮かんで、エサ取りの潜水をくりかえしていた4羽のヒナも、水際の泥の中にへたり込む姿を見せるようになった。

カンカン照りのなか日陰もなく、水温の上昇や、オタマジャクシやザリガニの死骸による水質の悪化があるのかもしれない。翌朝には、とうとうヒナの数が2羽に減っていた。実は、ヒナは70日で飛べるようになるという記事を見つけていて、それならもう大丈夫だからと静観する言い訳にしていたのだが、水から上がっているところをカラスにでもさらわれたと考えるほかはなかった。

心配になって仕事終わりにのぞきに行くと、夕闇の中で残った2羽のヒナが、水際の土に並んですくっと立っている。おやっと思う間もなく、羽をばたつかせながら、水面を勢い良く駆け出した。大人のカイツブリが飛び立つときと同じ助走の練習を、水たまりの向こう岸に向けて、何度か繰り返していたのだ。

今朝姿を消した2羽は、きっと新しいため池や川を目指して飛び立ったのだろう。残された兄妹も、きっと後につづくはずだ。想像よりはるかにたくましい彼らの姿に、すっかり見とれてしまって、しばらく立ち去ることができなかった。

 

 

『アジア辺境論 これが日本の生きる道』 内田樹 / 姜尚中 2017

内田樹の本を久しぶりに手に取った。

相変わらず、鮮やかな指摘(グローバル化で、自由という概念が「機動性」に改鋳された等)にうならされる一方、言葉の失速を感じる場面も多かった。

随分前、内田樹が中年過ぎて、学究と子育ての生活から論壇にさっそうと登場した時、目を見張った。いつの間にか「期間限定」という当初の看板をはずして、続々と出版を重ねるようになっても、多くの本からたくさんの刺激を受けた。彼には、汲めども尽きぬ思考の源泉が内蔵されている、という感じすらしていた。

やがて彼の発信にはますます「歯止め」がなくなり、ずいぶん格下と思える論者と対談したり、さほど面白くない彼の友人までが持ち上げられたりするようになった。政治的発言も多くなり、この本でも、特定の政治家や政策をさかんに切って捨てている。

その当否はわからない。ただ気になるのはむしろこんな所だ。

彼は、この5年ばかり韓国に講演に呼ばれるようになり、その中で、議論できる友人関係をつくり、日韓連携に向けてのささやかな「努力」をしているのだという。指一本動かしてない人とは違う、と。

ここにあるのは、講演旅行で知的な交流を享受する学者が、国内の愚かな嫌韓派を叩くという、彼らしくない凡庸な構図だ。内田樹にしても、自分の履く高下駄には気づけない、ということなのか。 

ガクエン退屈男 永井豪 1971

子どもの頃読んで、忘れがたかった漫画。そう話したら、友人が貸してくれた。

1960年代後半の学生の反乱が、70年代に入り、あらゆる学校の広がり、教師が武器をとって学生を鎮圧し、学生ゲリラたちが解放のために戦う時代となる。文字通りの殺しあいであり、美少女や怪人が入り乱れての、永井豪らしい展開だ。子供向けということもあって、当時語られていたはずのイデオロギーの問題には触れられない。

この漫画が派手に予言する通りにはならなかったが、子どもたちは、校内暴力、学級崩壊、不登校学力低下、という形で学校制度に対する無意識の反乱を広げている。学校外では、テロや戦争等、大義なき暴力の亢進はおさまらない。

学生ゲリラのリーダーの早乙女門土は、正義など関係なく戦いを自己目的化する人間として描かれる。ライバルの身堂竜馬は、女性のような外見をもち、クローンという出自のため自らのアイデンティティの回復が戦いの動機となる。二人の人物像は、今でも新鮮で魅力的だ。

 

 

ため池のカイツブリ

数日前からため池の水がみるみる少なくなり、もう真ん中付近に大きな水たまりが残っているだけになった。カイツブリの夫婦の姿は見えなくなったが、今年生まれたヒナ4羽は、日に日に小さくなる水面にポツンと取り残されている。カイツブリは成鳥でも飛ぶのが苦手そうだから、幼鳥が飛んで逃げ出すのは無理だろう。

今日は仕事が早く終わったので、まだ暑い中金網に寄りかかってのぞいてみると、水の流出はとまっているようで安心した。よく見ると、水たまりには大量のオタマジャクシが取り残されたようで、酸素不足なのか水面に次から次へと顔を出している。餌には困るまい。また、直射日光による水温上昇のためか大量の真っ赤なザリガニが折り重なるように水辺に殺到している。親鳥がザリガニを飲み込むのは見たことがあるが、ヒナには無理にちがいない。

すると、水辺を歩いていたハシボソガラスが、一匹のザリガニの前に立ちふさがる。ザリガニは瞬時に立ち上がり、バンザイするように両手のはさみを広げて、せいいっぱい威嚇する。しかし、カラスの鋭い嘴で食いちぎられて投げ飛ばされると、すぐに動かなくなった。カラスは、頭の部分の殻を除いて、器用に無駄なく腹に収める。エビみたいだから、こちらが見てもおいしそうだ。三匹目まで平らげて、四匹目には手を出さなかった。大げさにバンザイしつつ、すぐにやられるザリガニの姿が滑稽で目を離せなかったのだ。同じ生き物なのに、カイツブリのヒナの窮状には心を痛めて、ザリガニの惨劇を面白がる。人間は勝手なものだ。

その時、偶然、ため池の管理をする人が、水を抜きにやってきた。最後にため池の泥を抜いてすっかり乾かしてしまうのだそうだ。その時には、ヒナを捕まえて別の池に移すことができるかもしれない。僕は事情を話して、とりあえず水を抜く前に連絡してもらうことにした。彼は快く引き受けて、ため池の仕組みなどもていねいに教えてくれた。幸い権限があるというタグマ区の農事組合長さんは、以前聞き取りをしたこともあり、知らない人ではない。その時に何かできるかもしれないし、できないかもしれない。ただし、自宅から歩いて行って帰ってくる範囲内の小さな世界の出来事には相応の責任をもつ、という大井川歩きの精神には適ったふるまいだとは思う。

ため池の管理人は「わしらはあの鳥をケツブリと呼んでいる」とつぶやいた。思い付きの提案をする僕などより、はるかにこの土地の自然や歴史にひたった佇まいで。

 

高階杞一詩集 ハルキ文庫 2015

1951年生まれの詩人の15冊の詩集からのアンソロジー。今では小学校の教科書にも載っている。平明な言葉で、素直な感情のひだをやさしくうたう。もちろん食い足りない人はいるだろうが、それが彼の選択した「詩」なのだろう。

僕は、突き抜けた設定で飄々と押しきる代表作の『キリンの洗濯』みたいな作品が好きなのだが、意外と多くない。気に入った作品を引用してみる。

 

テレビを見ていると

突然名前が呼ばれ

明日は羽黒山との対戦だ

と発表された

いきなりそんなことを言われても

まわしもないし

稽古も小学校以来していない

第一、羽黒山って誰だ?

箸を置き

庭の方に目をやると

もう

裸の大きな男が塩をまいている

                       (『塩』  後略  )

 

忘れ物をした電球が

犬を連れて帰ってくる

「何を忘れたか   忘れてしまった」

ぼうぜんと

門前でしおれている

とうぜん   明りもつかない

家は暗いまま

夜へ

傾いていく

妻は台所で包丁を研ぎ

犬は庭で

走り回っている

 

明りがなくても

進んでいく時がある

                         (『電球』)

 

後者は、この詩集の中で異質の重さを持っていて、作者らしくない作品かもしれないが、引きつけられた。

 

 

 

 

アメリカ人はどうしてああなのか テリー・イーグルトン 2017

原書は2013年にアメリカで出版、原題は『大西洋の反対から-ある英国人のアメリカ観』というちゃんとしたもの。著者はイギリスの高名な批評家だが、読んだのは初めてだ。

ここにくだけた調子で書かれている内容は、日本ではおそらく西欧文化論とかポストモダニズム論として抽象的、高踏的に語られるものだ。その時、日本の論者は、自分たちの実際の生活のあれこれとは切り離されたものとして、思想の模型を語る。

著者は、イギリスの言葉や生活の延長線上に、アメリカの異貌を語る。一口に西欧とまとめられない文化の差異を体感的に描きだす。その上で、現在の最先端の資本主義が、ヨーロッパとは異質なアメリカの産物であることまで語りつくす。楽園を回復する理想を抱く勤勉な人々が、無限の天然資源の前に立ったときに資本主義のファンタジーが生まれたのだ、と。

さらに、意志や欲望を万能とする資本主義をすり抜けるには「私たちがいるこの場に依存して生きる」(ロレンス)しかないという重要な示唆も、さらりと付け加える。

表紙はトランプらしき似顔絵で、それがらみで文庫化されたのがわかる。「捧腹絶倒」と裏表紙にあるけれども、自由自在な語りについていくのがやっとで、とても笑うことはできない。そのことでも、現在の世界を語る上での、著者がいる場所のアドバンテージを思わざるを得なかった。

 

原っぱ

東京郊外の僕の実家の隣には、雑木林の空き地があった。そこを原っぱと呼んで、生活ゴミを燃やしたり、キャチボールや木登りや栗拾いをしたり庭がわりに使っていた。

付近の空き地は瞬く間に住宅に埋め尽くされたが、原っぱだけは、家々の隙間に何十年も残り続けた。しかしとうとう数年前、何軒かの新築の住宅に占領されてしまったのだ。覚悟はしていたものの、やはりさみしかった。

そんなことを思い出したのは、大井川歩きの途中、「○○メゾン沖」という名のアパートの玄関に、おそらくオーナーが手書きした小さな説明板を見つけたからだ。

かつてそこには、「沖」と呼ばれた古い屋敷とつつましい家族の生活があったのだという。新しい居住者が「末永くこの名と共に平和な暮らしを進められることを希う」と。

 原っぱのあとも、新しい家族の暮らしが始まっているだろう。僕もそれを祝福していいような気持ちになった。たとえ彼らが僕の思い出に気づくことがなくても。

元号ビンゴ(その2)

新たな目標ができたので、出勤前の短い時間で、近隣を回る。オオイ区の村社では、壊れかけた常夜燈に「寛政」の年号を見つけ、観音堂脇の石塔には「明和」の文字が。これは以前のコミュニティだよりの記事で、「明治」と読み間違えて紹介されていたもの。早朝から古びた石塔を覗き込む不審者に、隣家のご主人は、「(観音堂を)開けましょうか?」とにこやかに声をかけてくれる。

振替休日の今朝は、朝六時から勇んで家を出た。途中の休憩場所など計画していたが、途中財布を忘れたことに気づいた。自販機のお茶すら買えないと、愕然とする。

目星をつけていた神社跡に残る常夜燈には、力強く刻まれた「弘化」の文字。川を渡りカトウ区へ。カワウの潜水を間近に観察する。ふだん近くの池で小さなカイツブリを見慣れているから、その何倍もの大きさのカワウが水面から首を出すと、一瞬ネッシーかと思えるほどだ。

カトウ区の村社は天満宮で、きつい石段を登った里山の上にあって整備が行き届いている。春は桜が咲き誇り、眺望もよい。御来光を拝みに来る人も多いですよ、と参拝の人から教えられる。古い常夜燈の文字はうすれていて、蚊に刺されながら、読み取りに苦しむ。一文字目は、ウ冠は間違いない。二文字目は、どうにか「政」と読める。次は「六」。6年目があるのだから、条件的に「安政」に絞られる。

境内にある古い元禄の庚申塔を確認して振り返ると、向かいの小さな古い手水鉢に「享和」の文字が!  これで19世紀だけなら、ビンゴまであと二つに迫った。

田んぼ道が工事中で日に焼けたガードマンの人に声をかけると、連日の猛暑で大変とのこと。手足がつって倒れこみ、会社に交代を頼んで、そのあと五日ばかり寝込んだそうだ。朝九時なのにすでに真昼にように暑い。アスファルトには、カエルやセミなどの焦げた死体が転がっていた。

 

江戸の元号

江戸時代の元号は36個ある。

以前から順番に暗記しようと思っていて、近ごろようやく覚え始めた。それと同時に、これも前から構想していた、大井川歩きの中で江戸の元号のコンプリートを目指す、という新しい遊びを始めることにした。いわば、路傍の元号を使ったビンゴゲームである。

大井川歩きの自主ルールは、自宅から往復歩ける範囲のこと(だけ)を調べる、というシンプルなものだ。そうすると、足を伸ばせるのは、自宅からせいぜい半径3、4キロの同心円内となる。鳥や石碑を観察したり、地元の方から昔話を聞いたりしながら、時に里山も上り下りするから、体力を尺度にするとそのくらいが限度となる。

今までのメモや写真を見返せば、ほぼ見当はつくのだが、それでは面白くないので、記憶と勘を頼りに一から探索を開始する。

一日目は、早朝から3時間歩いて、「元禄」と「宝永」の庚申塔、「天保」の常夜燈、「文化」の鳥居、「文久」の石祠を発見する。二日目は、「享保」と「文政」と「慶応」の庚申塔、「嘉永」の常夜燈を見つけるが、同じ元号の物件が増えるので発見は難しくなるし、そもそも元禄より前の17世紀の元号は見た記憶はない。

それでも、見慣れた石の神々に、もう一度ワクワクしながら会いに行けるのは、我ながらよい思いつきだと思っている。彼らのもつ歴史の奥行の違いに敏感になる意味でも。

ちょうどお盆で、探索の途中、前にお話を伺った一人暮らしのお年寄りの家に、新しい車が二台並んでいるのを見て、ちょっと温かい気持ちになれた。

 

 

 

 

観光客の哲学 東浩紀 2017

とてもいい本だった。

リベラリズムナショナリズムグローバリズム、そして観光客。キーワードは少ないが、論述は驚くほどていねいだ。

数少ない精選された概念で世界のリアルな見取り図を描くという、言うは易く行うは難い現代思想の課題をあっさり果たしてるように見える。これは、第一線での長年の批評活動の蓄積を背景にして、その成果を総合し、可能な限り平易に展開しようとする意志に由来しているだろう。

ここには、著者の肩ひじ張った独自の主張を聞かされる印象はない。むしろ、概念を材料にして編んだ、正確で使いやすく丈夫な地図を手渡されたように感じる。

だから、この地図の中で、読み手自身がどこにいるのかは、一目でわかるという仕組みだ。だが、それで安心できるわけではない。自分の居場所からの見通しが良くなって、前に進むことへの励ましを得るかどうかは、この地図の使い方次第だろうから。