大井川通信

大井川あたりの事ども

金光教の教会にて

先日金光教の本部に立ち寄った時、うらぶれた門前町の様子に好感を持った。酒屋さんで神酒の小瓶を買ったのは、友人との話のタネにでもなればいいと思ったからだ。ところがふと思い立って、地元の教会を訪ねてみることにした。教会は自宅から一キロばかりの街中にあって、相当年季の入った木造の平屋である。大井川歩きの観点からは、僕の「責任」の範囲内だ。

よくこの辺を歩いている者だが、たまたま本部に立ち寄ってお酒を買ってきたのでお参りさせてほしい、と我ながらどうにも不自然な説明をする。応対に出た教会長さんは、唐突な申し出にやや面食らった様子だったが招き入れてくれる。内部は、板張りの広いホールになっていて、一段高くなった正面に簡素な祭壇があり、ご神体というのだろうか、教祖の書付が掲げてある。教えられたとおり一礼し四拍してからお祈りすると、祭壇のお酒をすぐに下げて戻される。神が降りてお神酒となったものをいただくのが流儀のようだ。その後、開祖金光大神についての話などをうかがう。

教会長さんの祖父がこの地に来て教会を建ててから、今年で90年になるそうだ。三代目で、数年間修行で他地域に行った以外は、この土地で金光教の教師の仕事を続けてきたという。この間、たくさんの人たちの悩みに向き合ってきたことが、彼の穏やかな話ぶりから想像できた。

 

ハラビロカマキリの闘い

砂浜を歩いていると、波打ち際を歩くカマキリが目に止まった。緑色が鮮やかで、腹が平べったいハラビロカマキリだ。なぎとはいえ外海だから、カマキリの左側からは、大きな波音が響き、時には波が届いて、カマキリの足もとをさらったりする。明らかに海の側は危険なのだ。にもかかわらず彼は、右に逸れることなく、大胆にも海に平行に歩き続ける。

ついに大波が来て、カマキリの身体を海水の中で何回転かさせて砂浜に押し戻した。波が引くとき、足の一本が砂に埋もれて動けなくなるが、次の波でようやく脱出する。すると彼は、今度は海に向かってまっすぐに歩き出したのだ。やがて胸をはって立ち止まり、悠然と自分の武器であるカマの手入れを始めた。あれだけ波に翻弄されても、全く闘志が衰えていない。勝算があるのか。

しかし数回の小波には、一歩も引かなかったものの、最後の大波にはあっけなく飲み込まれて、濁った海に姿を消してしまった。やはり、勝ち目のない闘いだったのだ。

 田んぼの王者タガメも、水に落ちたカメムシが進化したものだと本で読んだことがある。水に落ちれば、間違いなくカメムシは死ぬ。途方も無い数の失敗と犠牲の果てに、今の水生昆虫たちは命を得たのだろう。そこには、無数の個体をつらぬく、とてつもなく強靭な生きる意志があったはずだ。海中に消えたカマキリの中にも、その無機質の巨大な意志は力を及ぼしているのだろう。

 

★ところが、である。ふと気になって調べてみると、ハラビロカミキリのこの行動は、寄生虫ハリガネムシに「洗脳」されてのものであって、彼の闘争心によるものでないことがわかった。本来はハリガネムシの生息域の淡水に誘導したいところだが、研究によると水のキラキラに魅かれる物質を脳内に注入されるので、今回のカマキリのように海辺にやってきてしまう宿主もいるのだそうだ。しかし、海辺でのやや中途半端な行動は、そこが誤った目的地であることと関係があるのかもしれない。

いずれにしろ、水辺で紐のような身体の寄生虫が抜け出した後のカマキリやバッタが餌となって、水中の生態系が維持されている側面もあるらしい。巨大な意志というよりは、トリッキーな策略と狡智のたまものというべきか。

 

だじゃれを言ったの、じゃ、だ〜れ?

そのダジャレ名人は、当時東京郊外の団地にある塾で教室長をしていた。商店街の古い木造の二階屋を教室にしたもので、隣のパン屋のおやじが、塾生の自転車が店の前をふさいでいると怒鳴り込んでくるような環境だった。長身で洋楽好きのダジャレ名人は、学生アルバイトや生徒からトミーと呼ばれて慕われていた。

僕は、いくつかの教室をかけもちで授業していたのだが、ある日その団地の教室に教えに来た時、事務室の汚い壁に、一枚の張り紙を見つけて、うなってしまった。

「なすがまま、きゅうりがぱぱ」

味わい深い日本語を出発点にして、見事な対句で、おかしみのある上品な絵柄へ転換している。まるで武者小路実篤の野菜画の世界だ。僕は感嘆しながらも、いつかはこの題材で、これに匹敵する作品を作ってみたいと、ひそかに闘志を燃やしていた。

「なーすがまま、どくたーがぱぱ」

しばらくして、このダジャレを思いついたときには得意になって、だいぶ吹聴して回った記憶がある。今みても、元の作品の格調には遠く及ばないものの、それを受けての破調の展開としては悪くないのではないか。

俳聖ならぬ「洒落聖」同志のしのぎをけずる交流は、しかし歴史の闇に沈んで、思い返されることもない。ただ、今こうして記録すると、いかにも80年代らしい話に思えるのは、30年の時間の経過のなせるわざだろうか。

子どもの境界線

一年くらい前のことだ。僕が住む住宅街の真ん中には、遊具や砂場のある公園がある。自治会の仕事で待ち合わせていると、木製の滑り台の周りで、子どもたちが遊びだした。身体の大きさが違うから、同級生というより兄弟や近所の友達のグループなのだろう。もともと子どもが好きなので、話しかけて、いろいろな話をする。やがてメンバーが集まりだし、大人たちで目的地に出かけることになった。

その時、小学生低学年くらいの子どもが、また別の遊びを思いついたらしく、さも当然のように、僕にもいっしょについてくるようにうながした。おじさんは、向こうに用事があるからごめん。そう謝りながら、自分がいつの間にか「子ども」にカウントされていることに驚いた。

だじゃれを言ったの、だれじゃ?

今では人に自慢できる才能などまるでないけれども、かつてはダジャレを作ることには自信があった。ダジャレ自体は、昔からそれほど評価の高いものではなかったろうが、ある時期から親父ギャグと言われてさげすまれるようになり、今ではうっかり若い人に言おうものなら、殺意を持った視線でにらまれるような時代になってしまった。そんなに軽蔑するなら自分で作ってみろよ、簡単じゃないんだ、と内心思ってみても、多勢に無勢だ。

多作だったころ(笑)には、自分なりのルールがあって、一つには、パクリでない自分のオリジナルであること、もう一つは、その場で思いつく即興であること、にこだわった。後者は、好きだった山本健吉の俳句論の影響かもしれない。

若い頃、塾の専任講師をしていた時、ある授業で、前列の生徒がノートに正の字で、僕の言ったダジャレを数えているのに気づいた。それならと、本気でたたみかける。時計を見ながら問題をとけい! こんな時計はほっとけい! この時計を取っとけい!  その答えはほんとうけい?  振り返れば、当時はまだ、ダジャレに寛容なよき時代だった。

塾が終わってファミレスで遅い夕食をとりながら、今度は同僚のダジャレ名人と、連句のようなダジャレの言い合いを楽しんだりもした。その時の二人の会心のやりとりを、今でも覚えている。

僕「このとり肉、とりにくい」  友人「そうかもね」

サイクリングロードの雉

サイクリングロードの片側の水路の上を、時々、グリーンの背を輝かせてまっすぐにカワセミが飛ぶ。年配の人が、カメラでそれをねらっている。道の反対側は深い森なのだが、ふと見ると、足元の草の上に大きな鳥がへたり込んでいるので、ギョッとした。

まだら模様のキジのメスだ。気づかずに先に通りすぎたカメラのおじさんを呼び止めて、教えてあげる。二人で近づくと、さすがに身を起こして森の中に駆け込んだ。おじさんは、「医者が歩け歩けというから」とつぶやきながら、カメラを片手にまた先に行ってしまった。

キジはケガでもしていたのだろうか。後で調べると、地味な体色のメスはじっと身を潜めて、危険をやり過ごすのだそうだ。

博多 東長寺にて

義母の墓参りで、博多にある東長寺にお参りする。空海が帰朝後に開いた最初の寺で、大学受験で「晴れむ(ハ・レ・ム)心で真言開宗」と覚えこんだ806年が創建の年だという。驚くような由緒だが、博多駅近くのビル街にあって、歴史を思い返すには不利な環境かもしれない。寺の見どころも、平成になって作られた大仏と五重塔である。

大仏は、コンクリート造の寺務所の階上に安置されており、現代の名の通った仏師による10メートルを超す木造座像である。当時ドキュメンタリー番組が作られていて、いよいよ大仏の頭部を重機で搬入するという時、檀家の義母が祈るようにして見あげる横顔が大写しになった。義母が亡くなったあとに、深夜の再放送でそのシーンを見つけて夫婦で驚いたのを思い出す。大仏に参拝すると、あらためてその「大きさ」が、強いメッセージとなっていることに気づいた。身長で10倍の差がある人物と間近に対峙するという、ありえない事態にさらされるわけだが、それだけでも生き物として命の危機のレベルだろう。

五重塔は、朱色の総ヒノキ造りで、平安建築の国宝醍醐寺五重塔をモデルにていねいに作られていることは、素人目にもわかる。各層の高さが低く、軒の出が深い上に逓減率が大きい。このため、五層の屋根が一体となって、華やかな末広がりの形をつくっている。その上に垂直にたつ大きな相輪が、朱色の羽をひろげた蝶を止める黄金のピンのようで美しい。備中国分寺五重塔で、メカニカルな反復の単色の美を発見したばかりだが、それが吹き飛んでしまった。これはまるで別種の建築だろう。

ただ高さは23メートルで、醍醐寺の三分の二にも満たない。ビルの谷間に埋もれるロケーションもあって、見上げる塔として迫力不足なのは否めない。ここでも「大きさ」の重要性を感じることができた。

 

倉敷と浦辺鎮太郎

倉敷は本当に面白い街だった。いわゆる美観地区という白壁の蔵と町家が連なる地域だけでなく、その周辺の街並みとの関係がとくに興味深い。

まずは美観地区の伝統建築の圧倒的な充実ぶりである。たいていこの手の街は、街道に沿って建物が一列あるだけだったり、復元した建築が目立ったり、あちこち虫食いのようにほころびが見られたりする。しかしここは、面として街並みがメンテナンスされていて、全く隙がない。しかし、これだけ軒が低く間口の狭いミニチュアのような街並みが続くとそれも単調である。大原美術館中国銀行、旧町役場といった西洋模倣の建築の姿がむしろアクセントになっている。

ところが、戦後、美観地区の周囲に開発の波が押し寄せて、まるでスケール感の異なる道路と建物群を作りあげた。美観地区は、隔離されて映画のセットやテーマパークのようにも見えてしまうのはどうしようもない。

首謀者は大原家なのだろうが、この時、浦辺鎮太郎が生涯に渡って設計した建物が果たす役割が面白い。浦辺は、美観地区に隣接して、あるいはやや離れて、ホテルや市民会館、病院、市役所など大容量のコンクリートの建物をその四方に建設して行く。それらには、必ず、伝統的な蔵や町家の細部が引用され、あからさまにイメージの連続が図られている。高台の阿智神社から街並みを見下ろすと、芸文館などは巨大化した蔵に見える。

隅櫓という言葉が実際に使われたようだが、浦辺の建築群は美観地区を警護するとともに、そのイメージを力強く発信するヤグラの役割を果たしているようだ。実際の効果以上に、街をデザインし「ゲマインシャフトを形にする」(浦辺の言葉)意志がすがすがしい。

 

 

 

 

 

二人の教師

最近、続けて二人の先生と話をする機会を持った。

一人は、もう40代のベテランだが、とても若々しい。もともと同和教育で鍛えられた先生だが、研究機関での1年間の研修のあとは、その成果を地元に還元しようと自分で勉強会を作って、若手に学びの機会を提供している。そのことは前から聞いていたが、今回話して彼の別の一面を知った。地元では、元暴走族のリーダーが厳しい境遇の子どもたちを支援するNPOの活動が著名だが、彼はその立上げメンバーなのだという。その関連で国の審議会に呼ばれたり、シンポジウムを企画したりしているそうだ。そういう子どもたちや同僚の教師のための活動を、彼はまったく手弁当で自己宣伝とは無縁におこなっている。

もう一人は、まだ教師になって4年目の20代の先生。初年度には悩んで体調を崩し、教師を辞めようとまで思ったという。その時彼を救ったのは、ある勉強会の先生たちの温かさだった。そのかかわりのおかげで、その分野での県のリーダー格の教師たちとの付き合いがうまれ、自主的な勉強のために勤務外で遠方の学校まで出向いたり、全国的な研究大会にかかわったりする生活を送っているという。この努力がきっと、先ほどの先生のように、子どもたちや学校の同僚のために役立っていくことだろう。

誰も自分の子ども一人の教育にすら手を焼き、社会的にはコミュニティの維持にすら打つ手がない状況だ。にもかかわらず、公教育には、すべての子どもたちの健全育成と、いじめのない理想的なコミュニティの実現という無理難題が社会やマスコミから強迫的に求められ、無責任なパッシングに常にさらされている。こんな過酷な環境のもとで現場を支えているのは、先生たちの自主的な学びや活動、使命感によるところが大きい。ただ頭が下がる思いだ。

 

神社の恐怖

夕暮れ間近の神社の鳥居の前に、十人ほどの人だかりがある。地元のお祭りか何かなのだろう、と脇によけて鳥居をくぐると、石段がはるか上に続くのが見えた。駅や商店街からも近い街道沿いだが、この神社の山だけは開発を免れているようだ。拝殿にたどり着くが、誰もいない。さらに急な石段を登って、本殿にお参りするが、やはり人影はなく、大木に囲まれた境内にはすでに闇がこくなっている。壊れかけた石のホコラや石仏たちが暗がりのあちこちにひそんでいて、何かから神域を守っているように見えた。

長い石段の下から先ほどの一団の騒ぎ立てる声が聞こえてくるが、なぜか上に登ってくる気配はない。僕が降りたときには、街もすっかり暗くなっていた。さりげなく彼らを見ると、歳をとった人も若い人もいる。男もいれば女もいる。みんな興奮した様子で、お互いの手元をのぞきこみながら、何かの到着を待っているようだ。氏子ではない、と僕は直感した。むしろまったく別の異端の信仰を持つ者たちが集まって、何かを企てているのではないか。

「黄色が現れるはずだ」などと、彼らは僕には不可解な話に熱中している。ふと、西欧の妖怪たちによって神社が襲われる妄想が浮かんできて、僕はあわててそこを立ち去った。