大井川通信

大井川あたりの事ども

『中動態の世界』(國分功一郎 2017)を読む(その4)

ずいぶん乱暴な感想を書いてきたが、最後にさらに身勝手な連想をつけくわえたい。

著者が、能動/中動という、行為の二類型を時間をさかのぼって取り出したのは刺激的だった。著者は、この対立概念は基本的に抑圧されたままだと結論づける。しかし、それでは中動態の全面化という現代の事態を説明できない。この二類型は、おそらく近代において全く新たな形で概念化されているはずである。

マルクス資本論の冒頭で、労働の二重性を論じている。資本制において労働は、商品の使用価値をつくる「具体的有用労働」と、価値を生み出す「抽象的人間労働」との二つの側面を持つ。前者の労働は、具体的な商品の形を自分の外側に生み出すことで、自己の痕跡を消す。一方、後者の労働は、自分の中の労働価値というものを商品の中に転移させるのみならず、新たな価値の増殖と流動への発火点となる。この労働の二つの側面は、能動/中動という行為の二類型そのままではないだろうか。すでに80年代に社会哲学者の今村仁司は、マルクス経済学内部でしか通じないこの専門用語を、対象化労働/非対象化労働と読み替えて、社会を支える基礎的な行為として概念化を図っている。

おそらく中動態という言葉を復活させるだけでは、現代的な問題を考える手立てにはならない。肝心なのはその一歩先なのだ。その意味で、東浩紀の『観光客の哲学』は、見事な思考の手本を示していると思う。 この本で東は、能動でも受動でもない「観光客」の気まぐれなふるまいに、グローバリズムナショナリズムに閉ざされた世界を組み替えていく現実的な可能性を認めている。

『中動態の世界』(國分功一郎 2017)を読む(その3)

ほんの少し前までは、つぶやく、というのは徹底して私的な行為だった。独り言を小石のように道端に投げ捨てる。言葉は、即座に砂利に紛れて消滅し,当の本人は、つぶやいたことなどすっかり忘れて、目的地へと急いでいる。行為者は、つぶやきという行為の外側にまったく無責任でいられたのだ。しかし、今や「つぶやき」は、ネットに拡散し、つぶやいた主体をさらし続ける。つぶやきが引き起こす一連のプロセスの外側に逃げられない、という意味で、すっかり「中動態」化したといえるだろう。ところで、こうした現在進行形の事態の起源は、どこにあるのだろうか。

乱暴な言葉使いで言うと、近代の資本主義的な生産の開始にそれは見いだされると思う。それまで個人が単独で行っていた生産行為が、工場内での分業が始まると、様々なパーツに分解されてしまう。無意味なパーツを担う労働はどう変質するのか。生産過程の中でしか意味を持てない、プロセスに埋め込まれたものとなるだろう。と同時に、そのパーツにかかわる意志は、あくまでプロセスへの同意に基づく「非自発的な」ものとならざるをえない。分業が、工場内にとどまらずに、社会全体へと広がるなかで、こうした行為の変質もいっそう進行していくだろう。

グローバル化とか情報化といわれる現在は、その延長線上にある。直近には、つぶやきなどという身近で私的な仕草までが、巨大化したプロセスやネットワークにからめとられてしまった。行為の全面的な「中動態化」と呼ぶべきダイナミックな事態は、この本で描かれる精緻な「中動態の世界」とは、かなり肌合いの異なるものかもしれない。しかし、奇妙に難解なこの本が、少なくない読者から好意的に(ときに感動すら伴って)受け止められている一因は、このリアルな事態の方にあると思う。

ブルークロスムーブメント

知り合いの紹介で、ブルークロスムーブメントの集会に参加した。元暴走族の総長で、更生後に暴走族をボランティア団体に変えたことで有名な工藤良さんが中心になって、立ち上げた運動のようだ。司法、教育、福祉が連携し、非行少年の立ち直り支援にむけてのまちづくりがコンセプトである。元非行少年たちの座談もあったし、工藤さんも交えたシンポジウムもあった。ただやはり、初めて聞く工藤さんの話の印象が強かった。工藤さんは、小柄で童顔といってよく、とつとつと誠実に話すのだが、実践に裏付けられた言葉が重い。壇上の若い大学の先生の言葉がどうしても薄っぺらく聞こえてしまう。

工藤さんは、現在、少年専用の更生保護施設を運営し、特に難しい保護観察中の非行少年たちを全国から受け入れているそうだ。工藤さんは、少年たちを三つのタイプに分ける。一つ目は、暴力団にあこがれる反社会的タイプ。このタイプには、いろんな人に会わせて、「男を出す」のはヤクザだけではないことを示す。実際、工藤さんの生き方にあこがれて、更生して施設のスタッフになった人もいるようだ。「この人はうらぎれない」という関係を作ることがかんじんだという。二つ目は、引きこもりの反社会的タイプ。これは難しいが、一つ目のタイプが面倒見がいいので、彼らに外に引っ張り出してもらう。三つ目は、女の子で、性的に厳しい体験を強いられていることが多く、とにかく難しい。

非行少年たちは、更生したあとは地元に残って仕事をする者が多い。彼らの立ち直りを支援することが地元の経済を支える、という工藤さんの話が新鮮だった。たしかに勉強のできる優秀な子どもは、中央や外国に行って地元を顧みないことが多いかもしれない。

会場には、入所中の少年たちもいれば、安部昭恵氏が来ていたりして、雑多で風通しのよい場所だった。

『中動態の世界』(國分功一郎 2017)を読む(その2)

それでは著者は、中動態をどのように定義するのか。「主語が動詞によって示される過程の外/内のどちらにあるか」が、能動態と中動態との区別の基準だという。中動態は、主語(行為者)がある過程の内部にいることを示す、と。これは、あっけないほど簡単な定義である。たしかに文法上の中動態という態の提示は、目新しい。しかし、その中身が拍子抜けするようなものであることが、この書を読み解くキーポイントだと思う。

え、行為者がプロセスの中に組み込まれている、ということ? 個人が何でも自分の思い通りに指令を出せる立場(これは「能動」)じゃなくて、あらかじめ存在する過程や関係の中に入り込んで、その制約の中でふるまうって、当たり前のことじゃないかな。人間がプロセスやネットワークの外ではやっていけない、ってことならむしろ現代の方が当てはまることだよね。

著者もフーコーの権力論に触れて、日常の権力現象(非自発的同意)を説明するには、中動態こそふさわしいと述べている。だとしたら、中動態に関してまっさきに問うべきなのは、文法上は主役の座をゆずり抑圧されてきた中動態が、現代社会において、むしろありふれて支配的な事態となっているのはなぜなのか、という問いのはずである。この本の素直な読み手ならそれを疑問に感じるだろうし、著者自身が現代的問題とのリンクを意識しているのだから、なおさらである。しかし、この問いにはまったく触れられないのは、なぜなのか。ここでも「哲学」という思考の枠組みが枷となっている。

中動態の神秘化を避けるために、その歴史を探るというスタンスは正しいと思う。しかし、この本では、それが言語学研究史を参照したり、言語の変遷を問題にしたりすることにとどまっている。出来事を描写する言語から、行為者を確定する言語への移行という仮説は確かに面白いし、その中で中動態が居場所をなくしたというのも説得力がある。ただし、知りたいのはその先なのだ。そのためには、言葉の歴史ではなく、中動態(主体を巻き込むプロセス)という事態そのもの歴史を問わなければいけないだろう。社会経済的な世界における中動態の歴史を回避してはならないのだ。

しかし、著者はそこへ向かわずに、デリダハイデッガースピノザ等の哲学者や文学作品を、中動態という視角から細かく読む作業に没頭し、それがこの本のメインの議論となっている。その内容の当否は僕には判断できないし、哲学的には意味のある仕事なのかもしれない。ただこれでは、一般の読者に対して、そういう特権的な思考を経由しなければ「中動態」にアクセスできない、という印象を与えてしまうのではないか。結果的に、中動態のあらたな神秘化、権威化につながるように思える。

 

渦巻けるカラスの群れ

先日、今年初めて、ミヤマガラスの群れを見た。かつて塩田のあった開けた農耕地を走る県道で、道路わきの電線にカラスがずらっと並んで止まり、田畑にも散らばってエサをあさっている。ただしミヤマガラスにしては小さな群れで、大群になると、カラスがぎっしり詰まった電線が延々続くような異様な光景になる。通称千羽ガラスと呼んでいるが、ミヤマガラスは大陸からの渡り鳥だから、主に日本海側の冬の風物詩だ。東京では見たことはなかった。

もししばらく彼らを観察する余裕があれば、群れの面白い習性を見ることができるだろう。カラスたちは、まず上に向かって次々に飛び立っていく。ぐんぐん高度を上げて、小さな粒の集まりになった群れは、上空で渦を巻くように大きな円を描いて飛びながら、ゆっくり移動する。そして少し離れた場所に次々と舞い降りて、また電線で羽を休めたり、農耕地でエサをあさったりするのだ。

昔、文学史の勉強で『渦巻ける烏の群』という反戦文学の作品名を覚えた。作者黒島伝治がシベリヤ出征時の体験を材料とした小説ということだから、まちがいなくミヤマガラス(それも夏の大陸での姿)が描かれているのだろう。もし作者が日本でこの奇妙なカラスを見たことがないなら、強く印象に残って、小説の表題にしたのも無理はないことだと思う。

 

 

ooigawa1212.hatenablog.com

 

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水平線上に突起をつくれ

数年前、ある高校の卒業式に出席した。その学校の校訓は「水平線上に突起をつくれ」という一風変わったもので、校歌を歌う前にも、まず「突起をつくれ!」と大声で気合を入れる。由来を調べると、大正時代の校長の言葉のようだ。100年前には、今聞くのとは違った「ハイカラ」な語感をもっていたのだろう。自立とか個性とかいう抽象的な言葉よりも、突起という具体物の方がイメージが突き刺さる。それを水平線と対比させるスケールの大きさは、コスモポリタニズムの香りがする。大正デモクラシーの理想主義の影響があるのだろうか。

ただ、この校訓が僕に忘れがたくなったのは、ネットで、一人の卒業生の短文を見つけたからだ。(今探しても、もうその文章は見当たらないけれど)彼女は、高校生活を懐かしく思い出しながら、自分のたよりない現在の生活を振り返って、こんなふうにつぶやく。

「水平線  突起をつくるは  いつの日か」

とてもいい返句だ。こんな風に母校と卒業生との対話をとりもつ素敵な校訓は、めったにないと思う。

 

庭の恐怖

実家の庭の隅に小さな小屋があって、その裏に回ると、隣の敷地の板塀との狭いすき間から、道の脇に立つ木製の電柱を見上げることができた。電柱の上部には、変圧器みたいなものがついていて、丸形のガイシがついていた。幼い僕には、それがバケモノの丸い目玉に思えたらしい。肝試しのように、庭の隅にその一本足のオバケを見上げに行って、驚いて逃げて戻ったりした記憶がある。

小屋は取り壊され、木製の電柱も取り除かれた。実家の記憶も縁遠くなっている。しかし今でも、狭く湿っぽい路地に一人いて、無機的に光る白い目から見下ろされているような感覚に襲われることがある。

封印された自転車(記憶論その2)

どのくらい前だろうか。まだ記憶の衰えをそこまで自覚してなかった頃だった。ただ仕事が忙しく毎晩深夜まで働いていたから、そのストレスが大きかったかもしれない。ある晩、自宅のある駅に戻って、駐輪場にたどり着き、さあ自転車を出そうとして、チェーンキーの4桁の番号が全く思い浮かばないのに驚いた。何ヶ月もの間、毎日回している番号である。ただ、四つの数字だからと全くの任意の組み合わせを選んでいて、語呂合わせもなかったと思う。

その日は泣く泣く重たい足を引きずって帰宅した。しかし、たまたま出てこないだけで、すぐに思い出すことは疑ってなかった。結論から言うと、その四つの数字の並びは、永遠に僕の記憶から失われてしまい、以後その古い自転車は駐輪場に囚われの身となった。(自転車泥棒と間違えられかねない乱暴な手段で奪取する気力はなかったので)

ジョウビタキがやってきた

玄関を出ると、隣家の屋根の上から、「ヒッ、ヒッ、ヒッ」という声が聞こえてくる。鳥の聞きなしは微妙なものが多いが、こればかりは、「ヒッ、ヒッ、ヒッ」としか聞き取れない。その合間に、カタカタカタと小刻みにモノをたたくような音も聞こえる。

ジョウビタキだ。テレビのアンテナにとまっている。夏の間の大陸暮らしから帰ってきて、さっそく縄張りを宣言しているのだ。あるいは日本が初めての今年生まれの若鳥かもしれない。

ジョウビタキは民家の近くの低いところにいる鳥で、人懐っこい。見慣れているから驚かないが、特にオスはオレンジの腹と黒い羽に白い紋が目立ち、キビタキ並みに美しい姿だ。地味な色のメスも、目がクリっとしてかわいい。

これから冬の間は、オスもメスも一羽づつが縄張りをもって離れて暮らすが、春になって渡りが近づくと、野原で何羽かのグループを見かけるようになり、もうそんな季節かと気づかされる。その時まで、今年も散歩の目を楽しませてくれるだろう。

『中動態の世界』(國分功一郎 2017)を読む(その1)

昔からかかわっている読書会の課題図書として読む。よく売れていて、書評等でも評価は高いようだ。しかし、苦労して読んでみると、納得できなかったり、疑問を感じたりするところが多い本だった。たくさん考えさせられた、という意味では刺激的で得難い読書体験を与えてもらった気もする。

本書は哲学書であるが、哲学的思考を、外に向けて開こうという志向のもとに書かれている。プロローグには、依存症の患者との対話を載せているし、そもそも精神医学関連の雑誌に連載された論文がもとになっており、語り口はとても平明だ。しかし哲学の中に閉じこもるのではなく、哲学の外で「役に立つ」ことも意識されている以上、哲学的思考を外部と隔てる「境界線」について、よほど慎重に考慮する必要がでてくるだろう。この点について、著者がほとんど無自覚であるように思えるのが、まずこの本への最初の、しかし大きな違和感である。以下、本書の論述にそって説明してみたい。

現代の言語には、能動態と受動態の区別がある。しかし、かつて言語には、中動態という態があって、むしろ能動/中動という対立が先行していた。哲学の世界では、この点はすでに注目されていて、現在の思考の枠組みは、中動態の抑圧によって成立したという議論さえある。しかし彼らは、中動態を具体的に扱わずいたずらに神秘化してしまったため、この枠組みから抜け出せない。著者は、ここから一歩進めて、中動態が抑圧されるにいたる歴史を参照し、それを「意志」や「責任」といった周辺の言葉とともに概念化することで、従来の思考の枠組みでは語ることが難しい事態に光をあてようとする。

これが著者の思惑であり、このかぎりでは本書の議論はしごくまっとうなもので、医療現場等哲学の外へ裨益しうるのももっともな感じがする。しかし、本当にそうか。上記の議論には、能動/受動が決定的な対立であるという、この思考ゲームの成立に不可欠な前提がある。だからこそ、その対立を抜け出していく思考の身振りが貴重であり、特権的なものでありうるのだろう。著者もこの点については疑うようすはない。

「能動と受動の区別は、われわれの思考の奥深くで作用する内的形式」であり、能動と受動以外を思いつくのも難しい。これは「日本語の話者であっても事情はかわらない」と、著者は平然と宣言する。正直にいうと、僕はこの部分を読んで、この先を読み続ける気力を失うところだった。本当にそうか。仮にそうだとしても、断言ですますのではなく、それを丹念に説明するのが誠実な思考者というものだろう。

少なくとも、日本語話者にとって、能動と受動以外を思いつかないのは、単に中学校の英文法で態としてその二つしか習っていないからという理由のような気がする。日本語の文法や実際の使用において、この二つの態に振り分けられる、という感覚はまずないだろうと僕は思う。しかしこれは言葉の問題にとどまらない。ふだんの生活実感から言って、自他のふるまいを、著者が言うような単純な能動と受動以外では考えられないという人間がもし存在したのなら、一日だってふつうの社会生活は送れないのではないか。

これは次回の議論を先取りすることになるが、僕は、著者の定義する「中動態」とは、近代以降爆発的に拡大し、現代ではいっそう普遍化している事態だと考える。「中動態」のただ中で、つまり組織や社会で「非自発的同意」を日常として生きる現代人が、能動/受動の二者択一人間であるはずはないのだ。著者はそれに半ば気づきながら、理論的に蓋をしてしまっているように思える。