大井川通信

大井川あたりの事ども

橋を渡って

読書会のはじめにある参加者同志の自己紹介で、よく話に聞いていた息子の親友が、その場にいることを知った。お互いに驚いたが、せっかくだから会の終了後、場所を変えて話すことにした。二人で商店街を抜けて、街の中心を流れる川にかかる橋を渡る。このあたりで息子ともよく飲んだと教えられる。

彼らと同じ社会人一年目でこの街に来た僕は、仕事も生活も恋愛もまるでうまく行かなかった。三年ですべて破綻して、東京に戻ることになる。何が原因だったか覚えていないが、この川の橋の上で、職場の人相手に酔っぱらって大立ち回りを演じたことがあった。

川近くのスタバで、一時間ばかり、息子の姿がダブってすいぶん説教じみた話をしてしまった。文学や思想が好きな夢想家は、社会に出るとそのギャップに驚くことになるのは、キャリア教育なんてものがさかんになった今でも変わらないだろう。ただ、本を読んで考えることを続ければ、必ず何かにつながるはずだ。

別れて店を出ると、大通り沿いに当時の僕の会社のビルが、社名の看板やテナントを失って、亡霊のように白っぽく立っている。以前働いていたフロアーだけが、仕事が終わらないのか明かりがついている。なんだか、そこにかつての自分がいるように思えてならなかった。

『古代から来た未来人 折口信夫』 中沢新一 2008

地元の大井川の周辺を歩くと、まず目につくのは、平地に広がる田畑である。あるいは、里山に植林された針葉樹であったり、斜面に広がるミカン畑であったりする。大地や川や山は「物質」であり、それが育む稲や麦、果実は「生命」だ。集落には人々が住み、田畑や里山での働きにせいを出す彼らは「魂」をもつ。そうして村里の暮らしはゆたかな余剰を産み、「自然な増殖」を行う。

中沢によると、折口信夫は、物質−生命−魂の三位一体構造を「ムスビの神」ととらえて、その根本の働きから、神道を作り直そうとしたのだという。中沢はそれを、天才的な着想と絶賛するけれども、村里をありのままに見れば、そこに自ずから実現していることに気づく。

豊作や好天を祈り、病気などの災厄を祓う神社や辻々の祠は、三位一体を作用させる「ムスビの神」そのものだ。近年里山の斜面に目立つソーラーパネルさえ、ムスビの神によって余剰生産の役割を与えられた新種の「生命」に見えてくる。

いつもながら中沢新一の文章には、あるがままの世界を活性化させ、それに向き合う精神を元気づける魔法がやどっているようだ。共同体の一体感を支える神を求める柳田国男との違いや、共同体に外から衝撃を与える「まれびと」の概念、芸能への姿勢、『死者の書』の解釈など、どれもわかりやすくて、折口信夫をぜひ読みたいという気持ちにもさせられた。

 

泉福寺仏殿 大分県国東市(禅宗様建築ノート1)

今から30年ばかり前、国東半島をドライブして、泉福寺に立ち寄ったことがある。事前に情報はなかったのだが、思いがけず本格的な中世の禅宗様仏殿を見つけて、興奮して撮った写真が今でも何枚も残っている。熱心に観察する若者の姿が目に留まったのだろう、境内を掃除していたご住職が声をかけてくれて、座敷にあげていただいた。土地柄四国とのつながりが深いことや、ご自身が本山の総持寺から派遣されたことを話してくださった。その自然な立ち居振る舞いが、深く印象に残っている。

今回再訪して、その時のご住職が稲井令弘老師であることを知った。今のご住職は稲井御前と呼ぶ。お会いしたのは、おそらく派遣されてまもない70歳過ぎの頃だった。結局19年住職を務めて、病でお寺を離れた後91歳で逝去されたそうだ。ちなみに老師の後には、子ども電話相談室で有名だった無着成恭さんが住職になったのが話題になった。

1524年建立の仏殿が、そのあと国の重要文化財に指定されたのは知っていたが、指定には稲井老師が力を尽くしたことを知る。もしかしたら見ず知らずの若者が仏殿のすばらしさに目を輝かせていたことも記憶の片隅にあったかもしれない。仏殿は全面的に解体修理されてカヤブキに復元されていた。もさっとした茅葺屋根の禅宗様仏堂は見たことはなかったが、意外に似合っているという印象だ。その理由を考えてみる。もともと禅宗様仏殿は急傾斜の大き目な屋根を持っている。ただ屋根材が薄く軒ぞりが強くため、軽快感や飛翔感を演出していた。茅葺にそれを望むことはできない。しかし、禅宗様が好む屋根材(檜皮葺は木の皮、杮葺は木の板)と茅とは、植物系であり茶系の色合いという共通点がある。

僕は、禅宗様建築の魅力は、クワガタムシのような甲虫の身体の精緻な組み立ての美しさに通じるものがあると考えている。有機的なフォルムの構成要素として、茅葺きの屋根もふさわしいのだ。瓦屋根は日本建築にはよく調和するものだが、本格禅宗仏殿だけにはどうもなじまない。解体修理を経て、扇状に広がる垂木も、細かい組み物も機械的な美しさを増して、おおらかな屋根をうまく受け止めている。

内部に入って見よう。禅宗様仏堂は、床が土間であり、天井を張らずに化粧屋根裏とするために、小型の堂にもかかわらずに垂直方向に広い空間が作られる。また通例どおり内部の前面の柱を省略し、室町後期の特色として、さらに仏壇の脇の来迎柱を半間後退させているので、なおのこと広々とした空間を作っている。このためドーム状にせりあがった天井の架構もゆったりとして狭さを感じさせない。ただ、印象でいうと、前後にわたされて天井を支える二本の梁材が、もう少し太くて力強いデザインなら、無柱空間の素晴らしいアクセントになったのだと思う。元禄の修理時に取替えた影響だろうか。

六郷満山開山1300年記念ということで、仏壇の裏の涅槃像も見学することができたし、もう一つの重要文化財である開山堂を拝観することができた。

禅宗様仏殿は、中学生以来の僕のアイドルだ。こうして彼らの姿に間近く接し、つたなくとも言葉にできることをこの上なく幸せに思う。 

 

 

 

ブログを書く理由

ネットに弱いということもあって、SNSで何か書く気持ちはなかった。社会人になってからは、何かを発信する欲求や、それで承認を得る欲求については、少人数の勉強会や読書会、個人あての通信の形式で満たすような習慣がついていて、それで不満もなかった。漠然と、未完成で未熟なものを不特定多数に見せたくはない、ということを流行の表現手段に手を出さない理由にしていたような気がする。また、ここまで来たら、旧式のやり方にしがみつくことを自分のアイデンティティにしようという気持ちもあった。たんにおっくうで、新たな環境に適応することに怠惰なだけだったのだけれども。

たまたま一年ほど前、評論家岡庭昇の娘さんが、父親の作品を読むというブログを始めたことを知り、どうしてもコメントを書きたいと思った。これが柄谷行人なら、そんな気にはならなかっただろう。彼には大勢の読者がいて、十分な評価を受けているから。しかし岡庭は、ある時期の自分にとって大切な批評家でありながら、正当に評価されているとは言えない。そのために「はてな」に登録したら、思ったより簡単にブログを利用できることに気づいた。せっかくならこの場で自分も岡庭の読み直しをしてみようと書き始めたのがきっかけである。

思考錯誤はあったけれども、今では自分の関心を広く盛り込む形で、毎日記事を公開していこうと考えている。もちろん、内容的にも文章的にもとても未熟なものだけれど、後から簡単にメンテナンスできる機能に気づいた。仮にも「公開」している以上、それを放置できないという点で、自分の考えや表現を見直す動機になるのがありがたい。また、カテゴリーによる分類(の見直し)をしていくなかで、自分の思考や経験の諸要素をあとから関係づけたり、編集しなおすことができることも優れていると思った。年齢とともに衰える記憶などの知的能力を代行、補強してくれるという印象である。

今後、コンテンツを充実させていけば、まとまった意見を言わなければならないときも、そのためのメモを持参しなくてよくなるだろうし、知人に自分の特定のトピックにたいする考えを簡単に読んでもらえるようになるだろう。

こんなふうにきわめて私的な理由で書きついでいる中途半端な記事に目を通していただいている方には本当に感謝している。非力ながら少しでも明確な文章にしようという励みになっています。

ところで、いかにも旧世代と思われそうだが、たとえ匿名であっても自分の言葉を「公開」することには、遠慮というかおびえのようなものがあった。それが気にならなくなったのは確かである。考えてみれば、未熟な自分を半ば公開しながら生きているというのは、この社会の中の実在の自分もまったく同じだ。誤解や批判を受けがちなことや、自分が思うほど他者は自分を気にしていないし振り向いてくれないことでも両者は共通している。ネットワークというものは、人間の本質的な在り方であって、規模や仕掛けが変わっても、その中の居心地はたいして変わらないということだろうか。

安国寺で足利尊氏に出会う

人間の顔がどれも同じに見えてしまうという病があるそうだ。たしかに人の顔はどれも似たり寄ったりのはずだが、そこに様々な表情や美醜、精神の高下まで読み解く能力は、ふだん当たり前のように使ってはいるものの、特別な力なのだろう。人の顔を覚えるのが苦手という人もたまに聞くが、この特殊能力の強弱と関係あるかもしれない。

先日運慶展で、無著菩薩像を見たときに、それが高僧そのものであり、高僧の精神性をそのまま具現していることに驚いた。リアルな肖像というものは、現代の芸術を見慣れた目には、面白みのない安易な表現であるかように思える。しかし、人間の実際の顔立ちを分析し解析する能力は図抜けている。そこではごまかしはきかない。オリジナルで生気に満ちた人物を造形するのは、並の能力と修練ではかなわないだろう。

国東半島にある安国寺を訪ねた。峻険な山側でなく海側の町近くにあるのだが、静謐な環境は守られている。広い本堂で、重要文化財足利尊氏像をじっくり参拝できるのもありがたかった。安国寺は、教科書にも出て来るが、尊氏が全国に創建した寺院の一つだから、開山という扱いで信仰されているのだろう。

足利尊氏は、やや寄り目で、おどけたような表情にも見える。いや、おどけているのではない。彼の視線は、目の前の人間たちなどには見向きもせず、自らの内側にのみ向いているのだ。彼の空虚な内側には、世俗の権力や神々の力へのあこがれが渦巻いている。尊氏の身体は貴族の衣装をまとって、胡坐をかくように座っているが、丈の低い左右に思い切って広がった座姿は、デフォルメされて細部がきり落とされている。リアルな表情とは打って変わった抽象的な姿態が、権力の使徒である彼の人格の抽象性と釣り合っているように見えた。

 

 

大学二題

早朝、国分寺駅周辺を散歩。オナガの十羽ばかりの群れが飛ぶ。清宮熱が冷めない早稲田実業の脇を抜けると、住宅街の先に、学芸大がみえてくる。守衛さんに声をかけると、市民には開放していると教えられ、広々としたキャンパスに入った。銀杏等の紅葉が見事だ。来春からの友人の研究生活が実り多いことをひそかに祈る。

正門をでて、街道脇の江戸時代の庚申塔をスケッチ。6本の手に弓矢等をもつ青面金剛も足元の三猿もつたなく単純化されていて、味わいがある。中央線をくぐると、線路沿いに東京経済大学がある。偽学生として出入りしていたので、ふいに胸が締めつけられるような懐かしさに襲われた。やはりここが僕の学びの原点だ。本日入学試験という貼り紙のある正門を背にして、30年以前と変わらない坂道の通学路を下る。

『死者の書』折口信夫 1943

ある読書会で『死者の書』を読む。課題レポートを事前に提出するやり方は初めてだったが、とてもよく機能していた。読書会で起こりがちなのが、発言者と発言内容がかたよってしまうことだ。そして、悪貨は良貨を駆逐するの言葉どおり、本の内容から離れた世間話が幅をきかせることになる。

課題のテーマごとに全員の報告の機会があるので、参加者の満足度も高いし、得られる情報量も大きい。一般的な読みの傾向や、自分の読みの位置づけまでわかってしまう。

以下、その時提出した課題レポートから。

1 印象に残ったシーン
修道者が「こう こう こう」と魂呼ばいの行をしているとき、塚穴から「おおう…」と死者の声が聞こえた場面。
「あっし あっし あっし」と若人たちが足踏みする中、山の上に尊者の大きな半身が現れ、雲とともに郎女(いらつめ)の眼の前に舞い降りる場面。

2 「郎女」と「俤びと」について、思ったことを自由に書いてください。
豊かな才能と感性をもった若い女性が、半ば幽閉されて、写経などに没頭すれば、異様に研ぎ澄まされた感覚をもつようになるだろう。このため、遠方からの死者のメッセージを受けとめたり、理想的な人物や世界の姿を目の前にありありと見たりすることができたのかもしれない。

3 「死者の書」というタイトルの意味をなんだと思いますか。
死んだ者のリアルな視点から物語が始まっていること。しかし、この具体的な死者の視点は途中で放棄されているから、全体のタイトルとして少し違和感がある。死者の視点と郎女の視点との交錯がスリリングだったので、後半はやや残念。

4 感想
中学校の国語教師が授業中紹介したのを覚えているが、数十年たって、ようやく読了。意味も読みもよくわからない言葉がまじっているが、短くリズミカルなためか、ふわふわと運ばれるように心地よく読めた。
古代が舞台のいわば絵空事の世界だが、登場人物の心の動きは近代人のように合理的で、心理描写も的確。それが意外に読みやすかった原因だと思う。

5 疑問点
ストーリーの中で、いくつかのモノの終わりが描かれているのが気になる。貴族の屋敷は、石城で囲うのをやめて、築土垣となる。唐土の才が、やまとごころと入れ替わる。語り部の老女の物語に耳を傾けるものがいなくなる。これらの喪失は歴史的事実という以上に、折口自身が持つ同時代への危機意識を投影したものではないだろうか。

文壇バーにて

仕事で参加した大きな会議の懇親会を抜け出して、中央線のとある駅前に向かう。目当ての店は、繁華街を縦横に歩き回っても見つからない。ガード下でたまたま自転車を止めている人に尋ねると、びっくりした顔で、今からその店に行くところだと言う。二人がようやく並んで歩けるくらいの路地を、知り合ったばかりの常連と連れ立って歩く。

7、8席のカウンターだけの小さな店だけれども、昭和30年にマスターの母親が始めた店で、大江健三郎吉行淳之介が来ていたという。今も客は、映画や音楽関係の年配者が多いようだ。琵琶の奏者から、新作のCDを買う。彼らにまじって、左翼知識をネタにしながら、久しぶりに楽しく酒を飲んだ。

この店のママが僕のいとこで、夫婦で店をやっているから、いつか訪ねたいと思っていたのだ。彼女とは年が近く家が隣だったから、子どもの頃、部屋に「基地」を作って遊んであげたりしていた。

帰りには路地の出口まで見送りに来てくれる。お互い残りの時間をしっかり生きよう。言葉にはしなかったが、そんな気持ちで別れた。 

伊東忠太二冊

東京帰省時は、国分寺北口の小さな古本屋に寄るようにしている。神田や早稲田の古書店街に寄る気力や関心は、もはやない。ネットでたいていの古書が手に入るし、それも綺麗なのにはびっくりする。勝手な推測だが、僕が若い頃欲しかった本を購入した年長世代が鬼籍に入り、丁寧に保管していた蔵書が市場に出回っているせいかもしれない。

ただ、古書店の棚で実際に、目当ての本に出会う喜びはすてがたい。国分寺近辺は大学も多いし、サブカルの伝統もあって読書家も多いはずだが、南口の何軒かの古本屋は廃業してしまった。そのせいか店の棚のレベルも高く、回転も早い。今回は、前から欲しかった建築家伊東忠太の関連本が二冊、美本でしかも安価で並んでいて、狂喜した。

一橋大学に立ち寄ると、大学祭でにぎわっている。国立キャンパスは、忠太が設計に関わっていて、校舎のあちこちに、彼のデザインした不思議な妖怪や動物が石に刻まれている。バンド演奏やひっきりなしの雑踏を前に、妖怪たちも戸惑い気味だった。

 

 

引揚者と米軍ハウス

終戦後、博多港には、海外の一般邦人140万人が満州朝鮮半島から引き揚げてきた。博多の街中の聖福寺境内には、引揚者のための聖福病院と、医療孤児収容所の「聖福寮」が作られて、多くの孤児たちが看病を受けたということを最近知った。

聖福寺は、日本最古の禅寺と言われ、その伽藍は京都の禅寺に負けない風格を持つ。何より参詣のたびに、妻から境内にある花園幼稚園に通った思い出をよく聞かされていた。しかし、どうやらそこは引揚者のための施設を出自にもっていたことになる。

僕の実家の前には、数十軒が建て込んで狭い路地が縦横に走る都営住宅があった。引揚者も入居していたと聞いた記憶がある。同じ敷地で育った五歳年長のいとこのケンちゃんにその話をすると、引揚者がいたことは知らないという。一方、板塀を挟んだ実家の隣に、米軍のハウスのような家があって、外国人の家族が住んでいたことを教えられて、こちらがびっくりすることになった。僕が覚えているのは、そこが空き地になった後の姿だ。

隣町の立川飛行場に米軍が入っていた時には、米兵の住むハウスが多くあったと聞いてはいても、実際に自分の目で見ていないものは、存在しないことにしてしまいがちだ。目障りな事実を無くしてしまえば、戦争に関して、どんな単純な議論も可能になるだろう。