大井川通信

大井川あたりの事ども

就職という通過儀礼

長男が赴任地から帰省したら、ずいぶん素直になっていたと妻がいう。たしかに笑顔が多くなっているが、その顔は少し自信なさげにも見える。雰囲気で言うと、中高生ぐらいの面影に戻っているようだ。彼自身も就職した友人に久しぶりに会ったら、幼くなったように感じたと言っている。大学4年間で積み上げてきたものが突き崩されて、社会人としてゼロからもがいている証拠だろう。

教育の世界でも、小1ギャプとか、中1ギャップとかいう言葉が聞かれる。幼稚園の年長さんとして自覚をもっていた子どもたちが、小学校では一番の弟妹だから赤ちゃん返りをしてしまう。それだけでなく新しい環境に適応できずに不登校になる子どももでてくる。取りこぼしが許されない義務教育では、このギャップをできるだけ滑らかにする施策がとられてきた。就職におけるギャップについても、キャリア教育が中学校から取り入れられ、大学も今では就職予備校の様相を呈している。

そんな配慮がない時代だったから、僕の就職ギャップは悲惨なほど大きかった。当時は、企業の長期研修で学生根性をたたきなおすというスタイルだったが、不器用な僕は結局、20代いっぱいをこのギャップの調整に費やすことになる。ひょっとすると、まだ調整がうまくいっていないのかもしれない。

しかし古い自分が壊されて、もう一度身体を張って自分を作り直すという体験は、悪いばかりではないだろう。素直さや無邪気さ幼さというものは、習慣化された記号の体制を打ち破って、新しい現実に精いっぱい身体を開いている徴候だと言える。

ともあれ、画一的な通過儀礼に全員が歯を食いしばるという時代でなくなっているのは確かだ。長男の知り合いでも早くも仕事を辞めて、再就職の活動をしている人が何人かいるという。次男の職場でも入社1ヶ月で辞めてしまった同級生がいる。親としては、子どもたちが壁を超えるのをただ見守るしかないところだ。

フリースペースとしての神々

近隣にある集落が、里山の山上にクロスミ様という神様をまつっている。集落の人口が減りだしたときに、住民たちがクロスミ様をおろそかにしたためではないかと考えて、ホコラを囲う小堂をつくり、それだけでなく、由来を書いた説明板と、街道脇にクロスミ様入口の看板を立てた。ちなみにこれは平成に入ってからの話だ。入口の看板と説明板は、明らかに部外者のお参りを想定している。共同体の外部に通じる神々は、共同体外からの参拝を好むと考えられているようだ。

一般に古い村落は閉鎖的で排他的だと思われている。実際にそのとおりだろうが、上の理屈から神々の場所である神社の境内は、お参りの素振りさえしているならば、誰が出入りしても怪しまれないフリースペースとなっている。鎮守の社への通路は、お参り目的ならフリーパスとなるだろう。

さらに、村落には様々なホコラや石仏など神々の場所がある。たとえば、里山にあるホコラの神様の名前を憶えておけば、権利者不明の狭い山道で地元の人に見とがめられても、◯◯様にお参りに伺います、といえば、どうぞどうぞと頭を下げられること請け合いである。現在の住民たちは、以前ほど神様を手厚くまつっていないという後ろめたさがあるから、なおさらだろう。

「お参りさせてください」は、村落共同体に入り込むためのマジックワードだ。

『ジゴロとジゴレット』 モーム傑作選 新潮文庫(その2 )

◯『マウントドラーゴ卿』

登場人物は3人。精神分析医のオードリン医師と、診察室で向き合う外務大臣のマウントドラーゴ卿。そして患者の悪夢に登場する下院議員のグリフィス。

オードリン医師は、患者を治す特別な資質に恵まれているために名医とされるが、精神分析学を信じてはおらず、人間精神をわからないものと捉えている。

マウントドラーゴ卿は貴族出身できわめて有能な人物だが、家柄を鼻にかけた恐ろしく尊大な男である。労働者階級出身のグリフィスを軽蔑しており、グリフィスの父親の眼の前で彼の政治生命を絶つような論戦をしてしまう。その後、グリフィスが登場する悪夢に悩まされ、夢の中での自分の醜態を現実のグリフィスに知られている気がして困惑を深める。

オードリン医師は、それを彼の罪悪感によるものと解釈し、グリフィスに謝るようにアドバイスするが、マウントドラーゴ卿はそれを拒否する。卿は約束の時間に診察室に現れず、医師は、新聞でホームからの転落事故で彼が死んだこと、その同じ日グリフィスも自宅で息を引き取っていたことを知って青ざめる。そこには、何か人智を超えた二人の応酬があったはずなのだ。

ある種のホラーだが、マウントドラーゴ卿の人物造形は見事だ。「俗受けのするきれいごとを真に受けてしまう」労働党議員への批判は的を得ており、悪役一辺倒というわけではない。

  ◯『サナトリウム

神への信仰を失った現代、結核を病みサナトリウムで死と向き合う入所者の人間模様を、突き放したタッチで描く。長期の入所者のマクラウドとキャンベルは、お互いに憎み合い攻撃しあうことで自我の均衡を保っており、片方の突然の死で一方も衰弱してしまう。会計士のチェスターは、家族と平凡で幸福な暮らしを送っていたが、突然の死病に愛すべき健康な妻を憎むようになる。

しかし、モームはこのやりきれない小さな世界に救いを与える。享楽的な人生を送ってきた軍人テンプルトンが、美しいアイヴィを心から愛するようになったのだ。彼は自分の死期を早めることを知りながら、結婚を申し込み、サナトリウムを出る決断をする。二人を見送ったチェスターは、妻に詫びて、死の恐怖に打ち勝って妻を愛そうと考える。

やや唐突なハッピーエンドだけれども、サナトリウムに希望をもたらすテンプルトンが元々「世間的な道徳観からみれば最低な男」だったところに、モームの人間観が現れているようだ。

 ◯『ジゴロとジゴレット』

カメラが長回しで追いかけるように場面が、カジノのバーからテラスでのショー、そしてバーから楽屋へとスムースに移っていく。それとともに焦点の当たる人物が自然に入れ替わりながら、それぞれの人間模様を描きつつ物語が展開する構成の妙。

カジノの客サンディは、バーで金持ちの未亡人イーヴァと待ち合わせて、一緒にテラスで夕食を取りながら評判のショーを見ようとする。これは高所から火のついた浅い水槽に飛び込む曲芸で、ステラが夫のコットマンと行っていた。サンディはステラが死ぬ場面を見たいと公言する。ショーは成功するが、サンディたちは、同じテラスの古風で奇妙な老夫婦に注目する。老夫婦は席を立ち、バーで休憩するステラ夫婦をねぎらいに出向いて、自分たちの過去を話す。老婆は40年前に人間砲弾の曲芸で一世を風靡したという。しかしブームは去り、その後夫婦でペンションを細々経営しているのだ。老夫婦が立ち去った後、楽屋で突然、ステラはもう曲芸ができないと泣き出す。金持ち連中の道楽のために、これ以上死の恐怖に立ち向かえないというのだ。夫のコットマンは、苦しかった生活の果てにようやくつかんだ成功だと必死で説得するが、妻を愛する気持ちからそれをあきらめかける。その瞬間ステラが吹っ切れたように、気持ちをたてなおすのだ。

『弱いつながり』 東浩紀 2014

新年からすがすがしい本をよんだ。昨年は新刊の『観光客の哲学』に出会って、だいぶ考えさせられて、とても役に立ったけれども、東浩紀は何年も前からこんなすっきりした文体を手に入れていたんだと感心する。なんのてらいも臭みもなく、新鮮で大切な知見を、過不足なく手渡すような文体。

東自身が書いているけれど、この文体は、書物やネットにはりつくことをやめて、旅をすること(身体の移動)に軸足を移したことの成果だと思う。

旅で身体を移動させて、固定された世界や記号の体制に、何より自分の人生に、リアルなノイズを導入すること。このことがもたらす希望については、『観光客の哲学』でより詳しく語られることになる。

大井川歩きは、車に頼らずに自宅から歩いて戻る「旅」の途中で、偶然に身をゆだねて、人や自然や歴史の断片と出会う試みだ。そこで生じたノイズを増幅させて、できればこの土地の新たな神話を立ち上げたいと思う。それを「観光地化」といってもいい。だから東の論旨に全面的に共感した。

実は昨年大学を卒業した長男が、卒業間近の読書会でレポートしたのがこの本だったという。良い本を選んだものだ。年末に帰省した時、親とは出かけたがらない彼に、移動だ、ノイズだ、とキーワードを連発して何とか連れ出し、弟の職場である介護施設筑豊の木工工房との間に「弱いつながり」をつけることができた。そのことでも、東浩紀には感謝しないといけない。

北九州監禁殺人事件(事件の現場1)

大学を出て、新卒で就職した会社で、北九州に赴任した。前任者の借りていたアパートがモノレールの駅の近くにあって、そこに入居した。周囲はお寺が多い湿っぽい路地で、少し歩くとタバコ屋があり、小さな雑居ビルのようなマンションの一階に喫茶店もあった。大通りに出れば食べ物屋も多かったけれど、休日のお昼などその喫茶店で済ますことが多かったと思う。当時確か60巻くらいまでしか出ていなかった『ゴルゴ13』が全巻そろっていて、その店で読み切ったので、そのころはいっぱしのゴルゴ通のつもりだった。

結局はその会社は3年で辞めて、東京に帰ることになる。ただ行きつけの飲食店をあまりつくらない方なので、出来の悪かった会社員時代に無為に入り浸ったその店の印象は強い。その後、別の仕事で九州に戻った後も、小倉に車で出かけたときには、アパートとこの喫茶店の近くに立ち寄って懐かしんだりした。

今から15年ほど前、北九州で7人もの人間が殺された監禁殺人事件がニュースになったときに、かつて自分が住んでいた街の事件なのに、それがどこなのか気にならなかったのは我ながら不思議だ。世間を騒がす事件への好奇心は強い方だからだ。親族同志で殺し合わせるという凄惨さに顔を背けていたのかもしれない。

ところが、最近ほんの偶然から、あの喫茶店のビルが監禁殺人の舞台だったことに気づいて心底驚いた。なるほど文庫化されたノンフィクションの表紙には、あの小さなビルが写っている。

正月に小倉まで長男を送った帰り、あらためてそのあたりに立ち寄ってみた。30年以上前に住んだアパートは路地の奥に健在だった。タバコ屋は営業を止めていて、向かいのラブホテルは大きなマンションに建て替わっていたが、古いビルはそのままだ。5階建てで各階4戸程の規模だが、事件の影響からか入居者の気配がない。1階の喫茶店はずいぶん前に店が変わっているが、それも閉店したようだ。僕が毎週のように通っていた頃と事件とは10年以上の隔たりがある。さらにそれから15年。濃密な青春の思い出と、事件の記憶と、現在の風景がうまく混じり合わないで、なんだか変な気持ちになった。

 

年末にニュータウンの境界を歩く

郊外のリノベーションの連続ワークショップで、自分の経験から、開発団地の境界付近が面白いという発言を何回かした。年末時間が空いたので、当該ニュータウンの境界線を実際に歩いてみることにする。大晦日という一年の境界の日の、黄昏時という昼夜の境界の時間帯に、新旧の街の境界を歩く、という徹底して「境界=中間領域」にこだわる趣向だ。

まず、給水塔を目印に、街の中心にある公団の団地の中に入る。棟が不規則に配置されて、その間をぬうような小道を歩くのが心地よい。いつの間にか眺めの良い高台に導かれたりもする。団地を抜けると、今度は規則正しく区画された住宅街だ。敷地の広い住まいにはそれぞれの生活ぶりがうかがえるが、あまりきょろきょろもできない。すると突然視界が開けて、田畑が広がった。その向こうには小さな集落もあって、氏神の森が見える。足を伸ばして、お参りする。鳥居の前には、地名の由来になった古い湧き水と江戸時代の庚申塔がある。新年に備えて境内も掃除が行き届いている。

住宅街に戻って、街はずれに沿った坂道を上る。畑の脇に不揃いなニンジンがまとめて捨ててある。遠目に里山の近くの白い建物が気になったのだが、近づくと保育園だった。園庭が里山の斜面の自然を取り込む設計になっている。自然と文化の境界を生きる幼児にはふさわしい環境だろう。

もうだいぶ暗くなってきたので、団地の中を横切って近道で戻ることにした。ところが団地を抜けた夕闇の大通りの様子が想像よりずっとにぎやかだ。見知らぬ街に迷い込んだように途方に暮れたが、すぐに自分が団地の中で迷って方向を失い、反対側の街に出てしまったことに気づいた。迷路のような団地と夕闇のいたずらだろう。

せっかくなので、街道沿いのうどん屋に入り、年越しそばを食べることにする。店を出るともうすっかり夜だったが、街には新年を迎える活気が満ちていた。

木で作る話

ずいぶん久しぶりに筑豊山中の木工の展示会に顔を出した。夫婦と帰省中の長男と3人、正月のドライブを兼ねて。工房「杜の舟」の主人内野筑豊さんは、絵や文もたしなむ才人で、常に新たな造形を生み出す作家性と、ていねいに作品を作りこむ職人気質を兼ね備えた人だ。我が家の壁や棚には、彼の作った時計やオルゴールや人形が古い同居人のように息をひそめている。

毎年正月の展示会では、その年の干支(犬)にちなんだ作品が販売されるが、僕は一昨年の干支の猿を買った。「庚申達磨(コウシンダルマ)」と銘打たれ、手足もなく頭と胴が一体となった素朴な造形に、石仏のような魅力を感じたのだ。猿が入る円形の「湯舟」も、神仏の台座のようだ。

大井川歩きを続ける中で、かつての庶民の庚申信仰に興味を持った。由来についても、信仰の対象についても、信仰とも親睦ともつかない庚申講についても、とにかく雑多で何でもありという印象がある。石の庚申塔に刻まれる文字も、庚申であったり、猿田彦であったり、青面金剛であったりばらばらだ。東京などの庚申塔は文字でなく、青面金剛や三猿の像が彫られている。近隣で講を組み、二月に一度くる庚申の日に順番で集まって庚申様の掛け軸をかけ、オコモリ(飲食)をしたという。

無宗教の僕が信仰で連なれるとしたら、伝承と生活が混ざったような庚申信仰ではないか、と漠然と考えていた。しかしそのためには、掛け軸や庚申塔のような象徴が必要だ。この小さな庚申ダルマを見たときに、これこそそれにふさわしいとひらめいたのだ。

内野さんにそんな突飛な用途(庚申様として信仰する)を話しながら、ふと家にある家族の人形のことを思い出して、お礼を言ってみた。細長い胴体と楕円の頭に目鼻がついただけの人形を内野さんが多く作っていた時があって、それは本来妖精か何かのキャラクターだったと思う。大小や表情がさまざまな像から、家族に似ている像を4体選び出して購入し、以来家の棚にずっと並べてあるのだ。いつ間にか子ども二人の身長は母親を追い越して、昨年には長男は家を出てしまったが、それでもこの4体の人形は、あの頃の家族の姿をそのままとどめている。

「あの時は、誰の表情に似ているとかで盛り上がって選んでましたよね」内野さんの言葉に僕は驚愕した。僕たちは、多くても年に数回訪れるくらいの客で、とてもお得意とは言えなかった。それも10数年前の話である。

おそらく作家は、自分が手塩にかけた作品がたどる運命についても、無関心ではいられないのだろう。内野さんが包装用の紙袋の1枚1枚にその場でていねいにイラストを描くのも、手放す「我が子」のこれからへの祈りが込められているのかもしれない。人形を家族に見立てるという予想を超えた買い手の言動は、きっと作者の心に深く刻まれていたのだろう。そう考えると、突飛でも庚申様のことを話しておいてよかったのかなと思う。

木を倒す話

正月も特別な休みのない次男を、暗い中、駅まで送る。ついでに早朝の大社に初詣に寄った。駐車場は早くも車がごった返しているが、列をつくるほどではない。例年よりなぜか夜店が少なく、北海道から来る名物女将の「東京ケーキ」が店を出していないのが気にかかる。

帰りファミレスに寄って、新年の計画など立てていると、大井村の賢者原田さんが朝食を食べに来店した。賢者もこんな店にくるんですね。週に一回くらいくるよ。そして、期せずして、新年会となった。

賢者が用務員をしている幼稚園で、園庭の隅の一抱えもあるカシの大木を切り倒したそうだ。倒れるとき、どしんと予想外に大きな音がして、地響きが身体を貫いたという。遠巻きにしていた園児もそれで跳びあがった。すでに枯れ木になった大木が持つ法外な重量。自然の「存在」を知るとはそういうことではないか、と賢者はいう。たいてい人は、自然を風景の書割くらいに思っていて、大木がなくなっても気づきもしない。

そういえば、と賢者。Hさんが大けがしたの知ってる? Hさんは、村の旧炭坑の労務課長のお孫さんで、ずいぶん前から聞き取りでお世話になっている。半年前にもお祖父さんの経歴などを教えてもらったばかりだ。村の共有林での伐採作業中、倒れた木が跳ね返って首を直撃したという。もう3か月入院したきりだそうだ。僕は、几帳面に自家菜園の手入れをして生活を楽しむ様子のHさんの姿を思い出した。自然の「存在」は、時に人間に容赦ない暴力となって現れる。

 

情報端末としての神々

以前のことになるが、初詣で渋滞する道路の脇に小さな神社を見つけた時、ご利益のある有名な神社の近所にわざわざ小社がある理由が腑に落ちなかったことをよく覚えている。やがて「大井川歩き」を始めて、村ごとに氏神や産土(うぶすな)といわれる村社をまつっていることを知ったが、さらに不思議なのは、その神社の境内に木や石で作られた小さなホコラがずらっと並んでいることだった。

後から調べると、その小さなホコラは、もともとは村のあちこちにまつられていたものを、明治以降政府の方針で、村社の境内にまとめられたものだったのだ。神道を国家で管理しやすくするためだったのだろう。

しかし、現在でも村には、薬師様や観音様等の小堂が要所にまつられており、地蔵の石仏や庚申様の石塔も道路わきにある。里山にも、由来の不明な石のホコラが身をひそめている。すると江戸時代には、村中にさまざまな神様があふれかえっていたことになる。各家々でまつる家や土地の神様を別にしても、50メートル間隔とかで、何らかの神仏が村人を待ち構えていたことになる。これはいったいなんのためなのだろうか。近代的な意味での支配という点でも信仰という点でも、そんな過剰な神々は不要だったはずだ。

前近代のムラやマチの共同体は、基本的には移動の自由がなく、狭い土地の中でのプライバシーのない息苦しい世界だった。文字通り、壁に耳ありふすまに目あり、人の口には戸は立てられない、という人間関係だったろう。そういう膠着した関係のみでは人間は生きられない。人々は、ムラのあちこちに用意された神々に向かって、グチを言ってストレスを発散し、祈ることで理想や夢に逃げ場を見出していたのだろう。

つまり神々という装置は、共同体の外の世界と交信する情報端末だったのだ。この外部への通路(穴)によって、かろうじて共同体の人間関係の圧力が緩和され、うまくメンテナンスされていたのだろうと思う。ムラの複雑な人間関係や利害に応じて、用途別に多数の神々=端末が必要だったのだ。

こう考えると、神社の裏手にひっそり並ぶ古いホコラの神々が、廃棄された端末の受像機みたいに見えて、少し切ない気持ちになる。

『東京少年昆虫図鑑』 泉麻人(文) 安永一正(絵) 2001

泉麻人は、僕より5歳ほど年長だ。高度成長期の東京で5年の差というのは大きい。ただし23区内に育った泉よりも、はるか西の郊外育ちの僕の方が自然に恵まれていたとはいえるだろう。いずれにしろ、虫をめぐる共通の体験が、当事者ならではの重箱の隅をつつくような細やかさで描かれていて、胸が熱くなる。

たとえば、日中庭に飛んでくるゴマダラカミキリの光沢のある宇宙服を着たような姿や、クチナシの木に現れるスズメ蛾の一種オオスカシバのハチのようなホバリングとか。うすぐらい便所には、気味の悪いカマドウマがいて、出窓の下の砂地には、アリジゴクの巣があった。そうそう、アメリカシロヒトリという白い小さな蛾が、害虫としてひどくおそれられてもいた。

何より驚いたのは、セミのツクツクホウシの鳴き声の忠実な聞きなしだ。これは僕の特技で、これをしている人を知ったのは初めてである。もちろん仮名による聞きなしなので多少表現は違うが、まったく忠実に再現している。「ジーツクツクツク」で始まり、「オーシーン、ツクツク」を次第にテンポを上げながら繰り返し、最後に「モーイーヨー」を三回ばかり繰り返してから「ジー」で終わるというのが僕流の聞きなしだ。種明かしをすると、僕の場合、小学校の夏休みの自由研究でツクツクホウシの鳴き声(回数)の研究に取り組んだことがあるのだ。

もちろん著者の方が、虫に対する情熱ではるかに勝っていて、観察眼も記憶力も文章力もかなわない。現在の大井川歩きでも、この本は虫に向き合う上でのバイブルとなっている。ネットで中国語の翻訳があると知った。マイナーな本だと思うが、慧眼の士がいるものだ。