大井川通信

大井川あたりの事ども

親子は別れてはいけない

春、巣作りから始まるツバメの献身的な子育てが、間近で続いている。しかし、巣立ち後まもなく、親であり子であった事実は忘れ去られるだろう。

以前、内田樹のこんな言葉に救われたことがある。生物学的にいえば、親の唯一の役割は、こんな親と一緒にいると自分はダメになると心底子どもに思わせる(そして自立を促す)ことなのだと。だとしたら、僕も、十分親の役割を果たしたことになる。

30年以上前、僕も両親の献身的で生物学的に正しい子育ての結果として、当然のように家を飛び出して、遠方の地に来た。だから、自分の子どもが、ある年齢になると、親から距離をおき、家から出たがり、そして実際に出て行くことを、当たり前のこととしてながめていたし、そうながめざるを得なかった。

しかし、実際に彼が家を出て行ったとき、その出来事の家族にとっての大きな意味に驚愕することになった。多くの親子がこんな衝撃の出来事を、平然とやり過ごしていることが信じられない、と思えるくらい。(実は誰も平然となどしてなかったのだろう)

20年間、濃密な関係の下にあった家族が、任意の選択で、不可逆的に赤の他人に等しい別々の生活に入る。それは、人が死すべき存在であるのと同じく、自然過程と言えるかもしれない。にもかかわらず、「人は死んではいけない」と叫ばずにはいられないように、「親子も別れてはいけない」のだ。そうして、離れ離れに、しかしいつまでも親子の絆にとらわれつつ、生きていくことになるのだろう。

そのことに、子としてはだいぶ遅くなって、親になると身にしみて気づくようになった。

 

人は死んではいけない

開発が進むこの地域にも、大型の鳥の姿を見かけることは多い。トビや、アオサギやカワウなど。カラスだって、けっこう大きい。彼らの一羽一羽は、生まれ、育ち、老いて、死んでいっているはずだが、その死骸を見る機会はめったにない。残された森や里山の奥で、飛ぶことをやめ、苦しみ、ひっそりと死んでいくのだろう。

鳥見が好きな人間であっても、その一羽一羽の死について思いを致すことはほとんどないだろう。種として、その姿を見ることができれば安心して喜ぶ。生き物の生死流転の相を平然として観察している。そのことを考えると、少しぞっとしてしまう。

ところが、人間は、他者の一人一人を意識し、自分がそうした一人一人であることを自覚してしまった生き物だ。そうなると、一人一人は死んではいけない存在になる。死んではいけないにもかかわらず、しかし死んでしまう存在になる。前者の原則(本質)と、後者の事実(現象)との間の巨大な溝の間に、なんとか折り合いをつけて橋を渡そうと四苦八苦するのが、人間の営みとなる。

「人間の命は地球より重い」とか「基本的人権の尊重」とかいうのが、人間の本質側を深めた結晶のようなものだろう。そこから、弱く、もろい個人の身体に向けて渡された橋が、家系や血脈であったり、国家や共同性であったり、宗教や死後の世界であったり、未来や永遠の観念だったりするのだろう。

 

大型の鳥を見るまでもない。住宅街にも街中にも田畑にも、小鳥たちの無数の命があふれている。そこには、命と同数の死がまぎれていて、生と死を見分けることはできない。

 

生死巌頭に立在すべきなり

日付を見ると、2001年6月29日とあるが、朝日新聞夕刊の「一語一会」というコーナーに、今村仁司先生のエッセイが掲載された。仏教哲学者清沢満之の言葉を取り上げたもので、清沢の原文は次のように続く。「独立者は、生死巌頭(しょうじがんとう)に立在すべきなり。殺戮餓死固(もと)より覚悟の事たるべきなり。若(も)し衣食あらば之(これ)を受用すべし。尽くれば従容餓死すべきなり」

「これは仏教者清沢が無限の境地にたち、しかも激流のごとき現世を生き抜くときの覚悟を示す言葉である・・・それは厳しすぎる言葉だが、また強い激励を与えてくれもする」

今村先生が闘病しながら最期まで仕事を続けたときにも、おそらくこの言葉が座右にあったに違いない。

記事は、カラーの挿絵付きの瀟洒な仕上がりで、先生の文章も調子の高い、力のこもったものだ。当時、父親もたまたまこの記事を読んでいて、帰省した時、切り抜きを渡してくれたのも忘れられない。息子の学生時代の恩師の名前を覚えてくれていたのだろう。

 

学の道

今村先生は、晩年、清澤満之の著作との出会いを通じて、仏教の研究にも取り組むようになった。清澤満之の全集の編集委員を務めたし、清澤関連で3冊を上梓し、最後の出版は親鸞論だった。その中で、新しい人との出会いも多くあったようだ。ネットを見ても、印象深い思い出を語っている人がいるので、引用させていただく。

 

私には忘れることのできない先生の言葉があります。「ひとたび矛盾や存在という言葉を使ってしまったら、もう自分が何を思おうと、それは学の道に入っているということなのです。それを自覚することが重要です」・・・私がたとえ未熟でありながらも、これからも学の道を歩み続けようと決意したのは、この言葉を聞いたときでした。この先生の声はこれからも消えることはないでしょう。(「先生の声」親鸞仏教センター嘱託研究員 田村晃徳)

 

僕がわずかに知る範囲でも、先生は、むしろやんちゃといっていいようなキャラクターと親しみやすい風貌で、重厚な思想家という雰囲気ではなかったと思う。また、膨大な知識と論理の人だったから、親切に人を「学の道」に導くような教育者でもなかった。ただし、「先生の声」には、思考することの魅力を直に伝えて、人を考えることに誘うところが確かにあった。僕も、今でも、何事かを考えようとするとき、先生の言葉に支えられているのを感じることがある。

 

 

お風呂場のデリダ

今村仁司先生の講義を聞くようになった大学の後半、僕は、地元の友人たちといっしょに公民館で地域活動にかかわるようになった。70年代に「障害者自立生活運動」が巻き起こった土地だったから、当時周囲にはアパートで自立生活をする「障害者」とそれを支える活動家たちもいて、やがて僕も介助に入るようになった。まだ、理論や思想が、気分として社会変革と結びついている時代だった。

就職してまもなくの研修期間中に、東経大に今村先生を訪ねたことがある。国分寺の居酒屋で先生と二人でお酒を飲んだ。暴力を理論的に研究している先生に向かって、僕は具体的な差別のことを考えたいと話した記憶がある。(今でもその時の宿題が気にかかっている)

その後遠方の支社勤務となり、すぐに学生時代の勉強が実社会では何の力をもたない、というより、そもそも実社会向きの力が自分には欠けていることに気づかされた。それでも、読書を続けたのは、それが唯一の自分の支えだったからだろう。

以下は、就職して2年目の、1985年の春に書いた散文詩めいた断片。

 

デリダが来日した時、ゼミで先生がデリダの講演の印象を話してくれた。興奮した僕は、その晩、お風呂介助に行ったアパートで、Mさんをお風呂に入れながら、デリダの話に夢中になる。湯舟の中で黙って聞いていたMさんは、不意に口を開くと、ゆだったからもう出たいとつぶやいた。/会社の近くの喫茶店で、昼休みにデリダの『ポジシオン』をちょうど100頁まで読んで、そのままになっている。ウエイトレスの〈諸岡さん〉が、そのあたり、しおり代わりにはさんであって」

 

シンポジウムの廣松渉

今年がマルクス生誕200年であることを、テレビで偶然知った。ドイツのマルクスの故郷に中国が記念の銅像を贈ったということを、昨今の中国の動きとからめて批判的に紹介するニュースだった。ソ連の崩壊と冷戦の終結で、資本主義と民主主義が勝利し、もう「歴史が終わった」と言われた時代から四半世紀、世の中はまた得体のしれない方向に動き始めているのかもしれない。

その冷戦終結すら予想できなかった1983年、マルクス没後100年には、雑誌で多くの特集が組まれ、イベントが行われた。僕が今村ゼミに参加した東京経済大学でも、5月に記念の盛大なシンポジウムが開かれた。

多くの論客を集めたシンポジウムでは、今村先生のさっそうとした司会ぶりが際立っていたけれども、その会場で僕は初めて廣松渉(1933-1994)の姿を見ることができた。廣松渉はすでに思想界の大スターだったから、当時のノートを開くと、横顔の似顔絵(かなり上出来)も描いてあり、会場での様子までがメモしてある。こんなふうだ。

「廣松さん、姿勢よし。悠然と煙草をふかす。こころもち身体を斜めにしていて、目をつぶり、時々目を開けては鋭い流し目をこちら側に浴びせる。/(司会の冗談に)後ろを見回して笑う。周りを見回すのが癖みたい」

それからわずか10年ばかりで、廣松渉は逝去する。それを新聞で知って、僕は職場に喪服を着て出勤した。若かったせいもあるが、そんなことをしたのは、後にも先にもそれきりである。

 

今村ゼミの思い出

当時は、就職活動の解禁は、大学4年の6月くらいだったような気がする。卒業後就職して会社員となるというイメージしかなかったから、大学では3年から保険法の就職ゼミに入っていた。一年間、今村仁司先生の講義を熱心に聞いて、さて学生最後の一年をどう過ごすのか。

おそらく自分なりにいろいろ悩んだと思う。どうしてそんなことを思いついたのかはわからないが、東京経済大学の今村ゼミに入れてもらおうと考えた。当時は、ニセ学生マニュアルなどの本も出版されていて、そういうことに寛容だったのかもしれない。これもどうかと思うのだが、ゼミの初日の朝、先生の自宅の最寄り駅(確か八王子の片倉駅)のホームで先生に直談判して、ゼミへの参加をお願いした。先生といっしょにゼミの教室に入ると、そこにも一人他大学の学生がいて、その場で参加を頼んでいた。そんなことでよかったのか、と拍子抜けした記憶がある。

ゼミでは、ハーバーマスの『認識と利害』とアルチュセールの『資本論を読む』を読んだ。参考図書として廣松渉の『存在と意味』が指定されていた。他大学から参加しているといっても、僕には素養も実力もなく、目立った活躍は何もできなくて、先生には申し訳なかったと思う。ただ当時は、現代思想ブーム、ニューアカデミズムブームの渦中で、今村先生も脚光を浴び始めた時期だったので、思想界の中心にふれているかのような雰囲気を楽しむことはできた。この年の秋には、今村先生が「発見」に一役買った浅田彰の『構造と力』がブームとなり、一橋大学での講演で彼の才気煥発な姿を見ることができた。

今となれば、その多くは流行であり、幻想に過ぎなかったことはわかっても、80年代という時代と自分の青春がクロスした貴重な思い出である。

 

井之頭公園のアルチュセール

僕が今村仁司先生の存在を知ったのは、大学3年になったばかりの時だった。法学部に入学して、大学受験の延長戦で、司法試験の受験勉強に取りかかったものの、すぐに息切れしてしまった。目的を見失うと、無味乾燥な「解釈法学」の勉強は、およそ色あせたものになる。このまま、だらだらと大学生活を過ごしていいものか。

当時、学部の年度の講義内容は、一冊の冊子になっていて、一般教養の思想科目の中に、興味を引く講義を見つけた。出版されたばかりの『労働のオントロギー』をテキストにした講義内容はいかにも新進の学者らしいものだった。しかし、この講義は、必修の専門科目の時間とかぶっている。どうしようか。

当時、40歳になったばかりの先生は、すでに3冊の著書をもっていた。そのうち一番薄い清水書院の『アルチュセール』を買い込んで、なぜか一人井之頭公園のボートに揺られながら読んだ記憶がある。フランスの哲学者アルチュセールの思想の独自性を熱く語る本には、よく理解できないながら引き込まれた。そうして、この講義に出てみようと心に決めた。

初めての先生の講義は、今でもよく覚えている。少し関西弁のまじった言葉使いも面白かったが、何より驚いたのは、黒板の前で言葉を詰まらせ、考え込む様子だった。法学部の教授たちは、ノートを開いて、すでに出来上がった論理をたんたんと解説するだけだった。この人は、今この場所で新しい問題と格闘している。その姿にすっかり魅せられた。

それ以来、僕は先生の講義の熱心な聴講生になった。通学の途中だったこともあって、本務校の東京経済大学にまで出向き、夜間の講義を聞いたりもするようになった。

 

人を忘れるということ

うろ覚えなのだが、心に引っかかっていることがあるので、書いてみる。

ある高名な宗教学者の文章にこんな部分があった。彼は、死や老いについて繰り返し書いたり、語ったりしている人だ。アメリカ大統領の長年の友人が、あるときその元大統領が痴呆によって、自分と会っても誰だかわからなくなってしまった時に、元大統領が死んだと考えて一切の付き合いをやめた、というエピソードを引用しながら、「人格崩壊」と死との関係を考察しようとする文章だったと思う。

宗教学者は、元大統領の友人の態度を批判するのではなく、それを一つの考えと認めながら論をすすめていた。しかし、そのことを問題にしたいのではない。宗教学者が、元大統領の友人と同様に、長年の友人をそれと認めることができなくなることと「人格崩壊」とをストレートに結びつけていて、それを全く疑っていないところに違和感をもったのだ。そういうところに、知識人という記憶力や思考力の優秀さをよりどころにしている人間の狭さを感じてしまう。

僕の義母も晩年、入院中一時的に、娘に対して、どなた様ですか、と尋ねたことがあって、もちろん娘である妻はとてもショックを受けていた。しかし、その後、だいぶ回復したと記憶している。そこまではなくても、年配者が同じ話を何度も繰り返したりすると、この人大丈夫だろうか、という気持ちになるものだ。しかし、自分がある程度の年齢になり、物忘れで同じ話を繰り返しがちになると、それが当たり前の生理現象であることに気づくことになる。

長年の友人をそれと認められなくなる症状にも、いくつかの段階がありそうだが、それも生理現象の階段を下るプロセスの一部なのであって、「人格崩壊」などという究極の事態でくくれるとは思えない。

僕が今、聞き書きで何度か訪ねているおばあさんも、おそらく僕のことをはっきり覚えているわけではないかもしれない。誰に聞かれたなんてこととは関係なく、昔のことを思い出して話したという、あたたかい時間の積み重ねの記憶がぼんやり残っているだけかもしれない。しかし、かりにそうだとしても、いっしょにテーブルを囲んで話せば、楽しく語らうことができるし、そこには「人格的交流」が十分に成り立っているという実感がある。

 

 

 

『現代思想のキイ・ワード』 今村仁司 1985

5月5日は恩師の今村先生の命日なので、追悼で何か読もうとして、一番手軽そうな新書を手にとってみた。社会人2年目に出版と同時に読んでから、読み通すのはおそらく30数年ぶりになる。しかし、手軽と思ったのは大間違いだった。

当時流行していた「現代思想」の用語集の体裁をとっているが、それはほんのきっかけであり、今村思想に大胆に踏み込んだ内容が目立つ。今から読み直すと、その後20年間の研究生活で死の直前まで考え抜いた根本の問題が、しっかり問われている。もちろん当時の僕は、他の多くの読者とともにそんな部分は読み飛ばしていて、ドゥルーズデリダフーコーの名前が出てくることで、満足していたのだろう。

今村先生は、死の直前に体系書『社会性の哲学』(2007)を著して、それを「存在の贈与論的構造」から説き起こすが、端緒の「根源分割」として人間のアイデアは、この小著の中にすでに書き記されている。

また、晩年、仏教(清澤満之研究)に寄り道してまで追究した終生のテーマである「暴力の発現を抑制する倫理」の探究についても、自らの今後の仕事として宣言されており、そのためのユートピア思想の紹介に一番多くのページが割かれている。

今村先生は、哲学研究から出発した人ではなく、マルクスと社会批判への関心から思索を開始した人だった。だから、現代思想を扱っていても、決してスマートではない無骨な思考の手触りがあって、そこに学生たちを考えることを誘う力があったのだと思う。

今回再読して勇気づけられたのは、こんな部分だ。伝統的な一元論的思考を批判すると称して、「多様性」と「関係」を持ち出しても、それは一元論からの借り物であって、影によって本体を批判するむなしさがつきまとう。だから取るべき道はただひとつしかない。「さしあたり多様性や関係という言葉を借りて語るけれども、これらの言葉がかすかに指示している現象や経験をあるがままに描写し考えぬくこと、これである」

マルクス生誕200年のニュースで、今村先生の命日がマルクスの誕生日であることを初めて知る。偶然とはいえ、生涯マルクスにこだわった先生らしい因縁だ。