大井川通信

大井川あたりの事ども

どんどんかわっていくよね、かわらんと困るから

JRの車両で、向かいに座った老夫婦が、車窓風景をながめながらつぶやいた言葉。

40年前、50年前の思い出話をしながら、このあたりは田んぼだったのに、住宅街になってしまった、という。それを嘆くという風ではなくて、「変わらんと困る」と言い添えたのが耳にとまった。

僕自身がそうだが、今は、過度の自然の開発やそれによる経済成長に抵抗を感じる人々が増えてきているだろう。自然破壊にはとりあえず眉をひそめる方が、無難な時代なのかもしれない。

しかし老夫婦は、開発やそれによる便利さの恩恵を、目に見えて享受してきた世代なのだと思う。彼ら以降の世代といっても、その恩恵の上に生活していることには変わらない。エコを信条としているつもりでも、高速での大量輸送手段に疑問なく同乗しているわけだ。

夫婦の屈託のない会話に耳に入れながら、この時代の核心ともいえる感覚に、ふと思い当った。

 

親戚の消滅

葬儀のあと、親戚と久しぶりに顔をあわす。僕たちの親の世代(80代以上)が姿を消して、いとこたち(50代以上)が中心になり、その子どもたち(20代以上)がいくらか加わる。

父親は4人兄弟、母親は6人兄弟。当時としては、けっして多くはないだろうが、計10人の結びつきが、親戚の広がりをつくっている。

いとこ世代の兄弟数は、ほぼ2〜3人か。いとこの子どもとなると、ほぼ0〜2人に収まる。彼らのうわさを聞くと、独身が多数派だから、子どもの数はさらに激減するだろう。

僕にとっては、ざっと数えて16人の叔父叔母夫婦と16人のいとこ(とその配偶者)の一団が親戚のイメージを形作る。しかし、僕の子どもには、叔父叔母は3人、いとこは2人いるだけだ。だから、親世代が、かろうじて子どもたちに見せることのできる血縁のネットワークは、代替わりとともに、一瞬で消え去るだろう。

しかし、それを心配するのは、旧世代の感性なのかもしれない。彼らは、はるかに広範囲な情報ネットワークの中に、住んでいるのだから。

 

 

 

光明遍照十方世界

僕は理屈としては、仏教では浄土真宗曹洞宗に親近感を持っている。現実の巨大教団のあり方には問題があるのだろうが、それらの宗派の思想は精神性が高く、教えとしてシンプルで、虚飾がないという印象があるからだ。

葬式仏教は、考え方によっては、本来の仏教に後付けされた不純な夾雑物ということになるのかもしれない。しかし、この社会にどっぷり浸って生きていると、やはりお葬式に仏教はしっくりくる。

今日の葬儀は天台宗の「導師」にお願いすることになった。宗派名を聞いたときは、少しがっかりしたのだが、実際のところとてもよかった。念仏系の葬儀に参列することが多いのだが、あらためて密教の良さに気づいた。

導師は、不思議な手の動きや見慣れぬ道具で、秘術を使っているかのようだ。小声で呪文を唱えたかと思うと、朗々と読経する。棺に、仏の描かれたカードをまく。まったく非日常的な所作だ。

人が亡くなる。そのとうてい理解できない出来事に向けて、想像を絶する深淵に向けて、故人を知る人たちが心をそろえて祈る。仏教も導師も、その不可能を可能にするためのスプリングボードだ。だからそれは、できるだけ日常の意味から離れた、不可解で形式的な媒介であるべきなのだ。言葉は悪いが、俗臭の強い念仏の合唱や訳知りな住職の講話では、もはや現代人には、外の世界への媒介となりえない。

導師が若く清潔感があり、とらえどころない風ぼうで、言葉少ななのも、あくまで媒介者に徹しているようでよかった。

「光明遍照十方世界」(こうみょうへんじょうじっぽうせかい)

導師の読経から、この言葉を聞き取ることができた。光はあまねく全てを照らす、われわれの世界も、死者の世界もともに。

 

 

俺だって社長なんだよ

駅前の南口と北口を結ぶ、広い通路で、自転車にまたがった中年の男が、初老の警備員に食ってかかっている。どうやら、自転車の運転を制止されたのが、気に入らないらしい。気が小さいくせに、おっちょこちょいで正義の味方を気取りたがる僕は、二人の間に、胸をそらして立ちはだかる。どうしました?   

警備員の説明に、わざとらしく強めの声で、ここは自転車が運転禁止なんですね、と納得のふりをする。軽装の男性は、まだ不服そうだったが、タイトルのセリフを吐いて、立ち去っていった。

おそらく警備員は安全を確認した上でだろうが、運転中、いきなり腕をつかまれたことが、「社長」には子ども扱いされたようで腹に据えかねたのだろう。

はた目にはこっけいなようだが、何かのプライドを支えにして生きているのは、誰もが同じことだ。そして、他者の微妙な所作の違いで、天に昇るような気持ちになったり、地べたに突き落とされたりもする。やっかいだが、これはこれでわかりやすい。

安全地帯から人にあれこれおせっかいを出して、いい気になる人間の方が、むしろタチが悪いのかもしれない。

 

なるように、する(原田一言詩抄)

久しぶりに、大井村の賢人原田さんのお店に顔をだす。原田さんは、2年前から幼稚園で用務員をしているから、朝晩に保護者の車の誘導の仕事があり、店も不在がちだ。今はイモ畑を作るように頼まれているという。幼稚園の敷地のはずれの新しい小屋のことを聞くと、それも原田さんの作品だそうだ。プロの大工顔負けで驚く。

はたから見ると、なんでもできる便利屋さんだろう。だから、「役に立つことができなくなってからが勝負だな」という原田さんのさりげない言葉にどきっとした。

普通なら、役に立てる間がかんじんと考える。しかし、役割があると、その役割の範囲でしか人とつきあえない。まったくの役立たずになってからの方が、一人の人間として、本領を発揮できるという意味だろう。賢人ならではの言葉だ。

店の隅でほこりをかぶった墨書きのカードをめくってみると、「なるように  する」という言葉が目にとまった。シャレのようだが、深い。人間は、目的を定め、効果をねらって、まさに「する」ようにする。しかし、自然や世界は「なる」ようにしかならない。老いて、役立たずになり、死ぬ。そういう残酷な「なる」の世界を、そっと我が身で受けとめるように「する」、ということか。

 

鳥の声とともに(おまけ)

鳥の声の話をしたのは、視覚障害のある子どもたちのためだったけれども、同席した大人から反響があった。

教員の卵のKさんに、子どもたちの反応を聞いてみたら、何より自分が驚いたという。カラスの鳴き声の違いに気づいていたが、2種類いるとは知らなかったと。

たまたま休憩中、二人で外で話していたので、林から鳥の声が聞こえてくる。あれはなんだろう。ウグイスですか。すると、すぐに別の方向から、また別の声が。・・・ホトトギスですよね。

彼はしっかり覚えてくれていた。うれしくなって、なぜ二羽の声が近くで聞けるのか、の話をする。ホトトギスは、遠く南の国から、ウグイスに托卵するためにやってくるのだ。間近で、ウグイスの巣に自分の卵をこっそり産みつけるチャンスをねらっているのだろう。

Kさんは、心底感心したような表情をする。学びや知恵が受け継がれるタイミングは、どんなところにあるかはわからない。

 

 

鳥の声とともに(つづき)

子どもたちと鳥の声で楽しんだあとに、視覚障害が専門の教育大学の先生と、そのことを立ち話する機会があった。

先生は、鳥の剥製も触らせたらよかったですね、とアドバイスしてくれた。なるほどそうかもしれない。しかし、僕が鳥に興味をもってから、実際に博物館で剥製を見たのは、ずいぶんあとだ。ふだん遠くからチラッとしか見られない姿を目の前にして、興奮した。ガラスに激突して死んでしまった鳥の身体を手のひらにのせたとき、美しく精巧な姿に驚き、厳粛な気持ちになった。鳥とのつきあいは、細く長く続くから、その途中で関係が深まる喜びも大きい。

教室の中で、あれもこれもと提供することは、あらかじめそのプロセスを奪うことになるのではないか。やんわりと、僕はそんな反論をした。

 

鳥の声とともに

視覚特別支援学校に通う子どもたちに話す機会があった。本当は、決められた原稿の通りに挨拶すればいいのだけれども、どうしてもやりたいことがあった。昨年、同じような機会に少し鳥の鳴き声の話をしたのだが、子どもたちに好評だったと、あとで教えてくれた人がいたのだ。それで今回は、CD音源を用意して、何種類かの鳥の鳴き声を順番に聞いてもらうことにした。

聴覚を中心にして開かれる世界の持ち主が、その世界の中で、鳥たちの鳴き声を聞き分け、鳥たちとの出会いを楽しむことができるなら、どんなにか世界が豊かになることだろう。

初めはキジバト。デデ、ポーポー。聞いたことあるー。でもこれは君たちの家の近くで、一羽やツガイでいるハトの鳴き声で、公園に群れでいるドバトとはちがうんだ。

次にカラス。身近なカラスも二種類いて、身体の大きくてゴリラみたいなハシブトガラスと、ほっそりとしたハシボソガラス。アー、アー。この澄んだ声がハシブト。ガー、ガー。濁った声はハシボソ。

こんな風にして、トビ、ウグイス、ホトトギスコジュケイホオジロ、ヒバリの声を説明する。本当は、鳥を見分けたり、鳴き声を聞き分けたりするのは、とても難しい。そのかわり、聞き分けられる鳥の声を増やしていくのは、時間をかけて友達をつくるような楽しみとなる。そのことのきっかけになってくれればと思う。

 

 

教育学者という謎

人は誰でも、自分の体験から作り上げた「色メガネ」というものを持っている。僕の場合、教育学者の話はつまらない、というものがそれだ。

僕はたまたま、現場の教員や教育学者の話を聞く機会を多少もっている。学校の先生は、どの世界でもそうであるように、優秀な人もいればそうでない人もいる。中には、人となりや考え方に思わず引き込まれてしまうような人もいる。しかし、教育学者の話は、ほぼつまらないと相場が決まっている。ある時、これは構造的なものでないか、と考えるようになった。

僕は、評論好きということもあって、学問や学者といったものには、あこがれや好意をもっている。にもかかわらず、教育学は、他の学問とどこか肌合いが違うのだ。いろいろ考えてみて、その理由に思い当った。

世界の成り立ちや本質について疑問をもった人間は、哲学を勉強し、哲学者になるかもしれない。社会とは何かという問いをもった人間は、社会学者になるだろうし、歴史や経済や心理に関心がある人間は、歴史学者や経済学者や心理学者を目指すだろう。それぞれの学問は、その対象領域に対する固有の問いに支えられている。

しかし、教育とは何か、という問いが、ふつうに人間の心の中に生まれるものだろうか。仮に教育というものに関心がある人間がいるとしたら、まっさきに教員になろうとするだろう。そして教員というポストは世の中に潤沢にある。教育学者には、対象分野に対する生き生きとした問いが欠けている(ように見える)というのが、その話が面白くないことの大きな原因だと気づいた。

昨日も教育学者の本について酷評してしまったが、根本的な問いがないから、どうしても雑多な知識や観念の寄せ集めになって、力強い思考の働きが影をひそめることになる。

そして、もう一つ。教育学者には、全国の教員(たしか百万人ほど)と教員予備軍という固定客がいるということだ。どちらも教室に順応できている人たちだから、どんな話でも従順に聞いてくれるし、本も買ってくれるだろう。他の学問には、こんな上客はいない。しかし、固定客が与えられているということは、競争原理が働かずに堕落しやすいということでもある。ちなみに、普通の教員にとって、子どもたちはもはや上客ではない。つまらない授業をしたら、たちまち学級崩壊を起こすような相手である。

ところで、教員養成に携わり、現役の教員の研修を行うのは、教育学者たちだ。仮にそこで、学ぶことのイメージをつたえそこなったら、全国的にその損失は計り知れない。それは文科省の教育施策以前の根本的な問題だ。そういう当事者意識を、教育学者はもっているのだろうか。

 

『アクティブラーニング』 小針誠 2018

今流行のアクティブラーニングについて、明治以降の教育史にさかのぼってルーツをさぐり、こまごまとした事実をとりあげて、要領よく整理してある。今になって、アクティブラーニングがことさら取り上げられる要因をあげて、それがもたらす効用の多くが幻想であると、逐一批判している。新書一冊だが、この中には、雑多な事実と観念の断片がつめこまれている。教育の現状を理解するために必要な情報ということなのかもしれないし、著者がまじめな学者であるというのは伝わってくる。

しかし、なんだろう、この焦点がぼやけた感じは。かんじんなことについて、まったく手が届かないままに読み終えた徒労感。そう、下手な一斉伝達型の授業を受けたみたいな印象なのだ。これは、著者が、というより、教育学者の通弊であるような気がする。国の方針について、同調的か、批判的かということは表面的なことだろう。ここには、「正しいこと」をずらずらと並べ立てれば、それだけで何かが伝わるはずだ、という学校現場ではとっくに捨てられた古臭い信念があるみたいだ。自分の一般向けの著作の中にさえ、新鮮な学びを発動させる仕掛けをつくれない学者が、国レベルや学校での学びについてあれこれ書いても説得力がない。

著者は、結論部分で、あれもこれもという勢いでアクティブラーニングの問題点を指摘する。たとえば、それが強者の論理で、弱い子どもを切り捨て、格差を生み出す危険がある。あるいは、アクティブラーニングでも、子どもの主体的な意欲など引き出せないケースがあるはずだ。それが、全体主義や国家の方針に利用される危険性がある。もっと十分な議論と制度設計をするべきだ。そもそも国家の主導の改革は間違っていて、主役は子どもたちと教師であるべきだ。

しかし、これらはアクティブラーニングの問題点というよりも、現状の教育自体の問題点だろう。しかも、ある意味間違ってはいないが、手垢のついた、誰でも言えるような問題点だ。こまごまとした記述につきあった上に、こんな予定調和の結論が述べられたら、だれだって徒労感を免れない。

今はバラ色の未来や未来への特効薬など信じている人などいないだろう。ただ、自分のかかわる現実がある以上、その実際の現場をよりよくしようと試行錯誤する。それは政策決定者にしろ、現場の教師にしろ、地域で活動する人たちにしろ、同じことだ。そうした現場からのみ、新鮮な問いがうまれ、学びが立ち上がり、その学びが、他者を動かす力となるのだと思う。