大井川通信

大井川あたりの事ども

二葉亭四迷のエッセイを読む

読書会で、二葉亭四迷(1864ー1909)の『平凡』を読んだ。岩波文庫には、表題作のほかに、エッセイの小品がいくつか収められているが、これも面白い。表題作のモチーフである文学批判を、ざっくばらんに語る中で、びっくりするくらい鋭い知性の輝きを見せている。

『雑談』と題されたエッセイの中で、二葉亭はこう語っている。文学者たちは、自分たちこそ「精神界」の主役であると勘違いして、世間を「物質界」と断じて、やれ堕落しているだの、意志薄弱だのと声高にののしっている。しかし、彼らの声など世間の人々にはまったく届かないし、彼ら自身もたいていは生活の条件に負けて、こそこそ現実界の住人になっていく。こうして、文学者たちの語る「精神界」は、実社会とはまるで無関係で進んでいる。

ところが、と二葉亭はいう。今日の社会には、実社会と表裏一体となってそれを動かす「精神界」が別に厳然として存在している。そしてこちらの方が、文学、芸術、哲学などより、はるかに活発で生気が充実している。

学者や批評家は、実社会に対して金力の支配を批判するが、それは皮相な見解だ。実社会を動かす「精神界」を支えるのは、個人や社会の欲望であり、幸福を求める活動である。これこそが研究に値するものではないか、と二葉亭は喝破する。

常識的な見解が持つ二項対立(精神界と物質界)が、実は共通の要素(精神活動)を含んでいることを指摘し、近代社会の動向を踏まえて、その優劣を逆転させる。見事な批評となっていると思う。しかも、この透徹した認識は、近年のイデオロギー論を先取りするような視点を持っている。社会を実際に機能させるイデオロギー(精神活動)こそ、批判的に検討すべきであると。

明治には、こうした批評は存在しないと思っていた。二葉亭四迷おそるべし、である。

 

 

 

 

台風一過

夕方から、いよいよ台風が近づいてきて、雨風の合間に、ふいに突風につき飛ばされそうになる。空には、ちぎれた雲がいっせいに同じ方向に流れているが、その中を、飛行機が一機、ななめに横切っていく。こんな天候にどうしたのだろうか。家の周辺を見回り、ひさしぶりに雨戸を閉めて、家の中に引きこもる。

翌朝は、明るく青空となった。門の脇のケヤキの下は、引きちぎられた小枝や葉が散乱している。河口近くに行くと、水面は川上からの濁流で茶色く濁っている。沖からの波が、川の流れにぶつかって、せり上がり、白い波がしらを見せる。

突然、ミサゴが垂直に濁流の中に飛び込むと、何かの魚をつかみ取って、林の方に飛び去って行く。濁った水面にも、魚影は映るのだろうか。

浜辺にはたくさんの漂着物が打ち上げられたはずだが、すでに大量の砂に深く埋まって見えなかった。

 

魔術の再生

見田宗介は、近著『現代社会はどこに向かうか』の中で、脱高度成長期の若者の精神変容のデータを扱っている。そこで目を引くのが、「お守り・お札を信じる」、「あの世、来世を信じる」、「奇跡を信じる」などの一見非合理的な回答のポイントが、1973年からの40年間で大幅に伸びていることである。

このことは、僕にも体感的によくわかる。僕が子供の頃は、科学技術への信頼がきわめて強く、神仏への信仰を圧倒している時代だった。おそらく敗戦体験とマルクス主義の洗礼の影響にもよるのだろうが、父親は神道を毛嫌いしていて、家族で初詣すらしたことがなかった。そんな家庭に育った自分が、今では、地域の神々にお参りしてそのいわれを調べるのを何よりの楽しみにしている。神々は、意外なほど強い復元力をもつのだ。

見田は、この傾向を、近代の合理化の圧力が減退して、ウェーバーのいう「脱魔術化」が逆転し、魔術が再生しているのだと鮮やかに分析している。ただ、魔術というと少し大げさに聞こえるかもしれない。風景への驚き、暗闇での恐れ、未来へのあこがれ、背後の気配、等々の細やかで異質なリアリティが、再び人々の意識に浮上してきている、というのが真相ではないだろうか。

 

球はふしぎな幾何学である。無限であり、有限である。

球面はどこまでいっても際限はないが、それでもひとつの「閉域」である、と見田宗介は近著『現代社会はどこに向かうか』の中で、続ける。

だから、生産と消費の無限拡大のグローバルシステムは、地球表面上での障壁を消し去るかに見えるが、そこで最終的な有限性にぶつかることになる。そうして人間は、世界の有限という真実に立ち向かい、新しい局面を生きる思想とシステムを構築することになる。それが、近代のあとの「永続する現在の生の輝きを享受するという高原」であると、見田は喝破する。

見田の予言の当否はともかくとして、標記のレトリックは、僕に、自我という球体のことを連想させた。自我はふしぎな幾何学である。その球面に映る世界に際限はないが、それでもひとつの閉域ではないか、と。

人は、どんなこともできるし、どこへでも出かけ、どこまでも見通すことができるかもしれない。しかし、その無限の可能性は逆に、自分という地平からは決して逃れられないことを示している。はたして、人間は自己の有限という真実に立ち向かい、「現在の生の輝き」を享受することができるだろうか。

 

 

『現代社会はどこに向かうのか』 見田宗介 2018

自分自身が老境に近づくと、かつて親しんだ思想家たちもすいぶんと高齢になり、この世を去った人も多くなる。かつての若手すら、もう70代になっている。彼らの新しい著作を読むと、年齢という要素が大きいことに気づくようになった。思想家といえども、抽象空間で認識するマシーンではなく、生活し、老いていく存在である。

この薄い新書は、ほとんどが既発表の短文で新稿は少なく、構成もどこかぎこちない。これは出版社の問題だろうが、変換ミスも散見される。80歳を越える著者だが、さすがに文章は美しく、論理はみずみずしい。ただ、フランスの若者のアンケートで「非常に幸福」と答えた者の自由回答の引用を20頁近く読まされたのは、正直ちょっとうんざりした。

著者は、人類史を大きく三つの局面に区分する。初めは、原始社会の定常期。文明の誕生とともに爆発的な増殖期に入り、それは近代においてきわまる。現代は、著者が「高原」と呼ぶ再度の定常期に向かう過渡期と位置付けられる。

爆発期においては、生存のための物質的条件を確保するために「合理化」が必要とされる。しかしそれが達成されると、生産主義的、未来主義的、手段主義的な合理化圧力は不要となり、現在を楽しみ、他者と交歓し自然と交感する、高原期の精神が生まれるという。この巨視的な視点は、とても新鮮で貴重だと思う。

ただし、人間の悪徳の全てが、生活条件確保のために生じたかのような理解は、単純すぎて受け入れられない。著者は未来主義を否定しながら、あくまで未来志向であり、ユートピアを待望している気がする。邪推すれば、それが著者の「末期の眼」に映ったビジョンなのかもしれない。

この本では、70年代の若者と00年代の若者のアンケートの比較から、人類史の大きな局面変化を実証しようとしている。二つに時代に足をかけて生きている人間としては、高度成長期の風景にも愛着がある。その時代に一度きりの人生を生きた人々にも、かけがえのない生活と幸福の意識があったのだと思う。それは、高原期の人々の幸福にも遜色がないもののはずだ。

 

 

 

 

トンビとカラス

テレビシリーズの日本昔話に、こんな話を見つけた。

昔、鳥はみんな白かったという。トンビの田んぼの田植えを、鳥たちみんなが手伝いにきたりするのは微笑ましい。村人の似姿だ。そのときに、連れてきたヒナたちが、親を間違えてついて帰ってしまう。

村のリーダーとおぼしきトンビは一計を案じる。白い羽根を別の色に染めれば、ヒナがも見違えることはないだろう。トンビ夫婦は染料を用意して、鳥たちを希望通りの色に染めていく。夜までかかって村の鳥の全ての羽を染めた頃に、怠け者のカラスがようやくやってくる。いろいろ注文をつけるので朝までかかってきれいに染めたのだが、疲労でふらふらのトンビが黒の染料の器を落としてしまい、予想通り、カラスを真っ黒にしてしまう。怒ったカラスがトンビを追い回し、人(鳥?)のいいトンビは謝りながら逃げまわるようになった、というお話。

トンビは、カラスより一回りも二回りも大きい。しかも猛禽類の鋭いくちばしと爪を持っている。それが、群れに追われるならまだしも、一対一でもカラスに追い立てられるままになっている。昔の人にも、それはいかにも不思議でもどかしく感じられたのだろう。そこで、こんな物語をつくりあげて、説明をくわえようとしたのだろう。

物語の中では、カラスは怠け者で、わがままで、かんしゃく持ちに描かれている。頭の良いカラスは、村の暮らしでもやっかいものだったにちがいない。

 

 

雨ごいとW杯

子どもの頃、地理の授業で、降水量の少ない四国の讃岐平野にため池が多いと習った記憶がある。近所を歩くと、僕が住む地域も、小さなため池があちこちにある。ほとんど江戸時代に作られたもので、水量の豊富な川がないことが理由だろう。それでも日照りには苦労したようで、雨ごいにまつわる言い伝えが残っている。制作中の手作り絵本も、そんな雨ごいの石仏の話だ。今はうっとおしい梅雨の雨水が濁流となって、ため池に流れ込んでいるけれども。

W杯で、日本が1次リーグを突破して、決勝トーナメント進出を決めた。ただ1次リーグ最終戦の戦い方が物議をかもしている。並行して行われている試合で後半、コロンビアが1-0でリードすると、0-1で試合に負けている日本が、それ以上の失点と、順位決定に影響するイエローカードを回避するために、点を取りにいかずに明らかな消極的な試合運びをしたのだ。

海外では批判的な意見が多いようだが、日本では、それもルールの範囲内の作戦の内であるという擁護論が目立っている。しかし、どうも釈然としない。

もし、コロンビアの試合が終了していたのなら、どんな試合運びも作戦の内だろう。しかし残り時間でセネガルが同点に追いつく可能性などいくらでもあったのだ。すると、日本が自力でできること、いやしなければならないことは、勝ち上がりのために同点をねらいに行きながら、セネガルの負けを想定した対策もとる、ということことになる。そうすれば、結果はともかく自らの運命の行方を自分の手中に置くことができたのだ。それは近代以降の人間にとって、一番大切なモラルのはずである。

にもかかわらず、日本はそれをしなかった。別の試合の行方という自分たちがまったく関知しえないものに運命の一部をゆだねてしまった。そのことが、欧米の人間から酷評される原因だろうし、すでに欧米化されている僕たちも奇妙に感じてしまう所なのだろう。

日本チームのそういうとっさの判断のうちに、雨ごいや神頼みの長い文化的伝統をみることはできないだろうか。ため池をつくって人事を尽くしても、それで間に合わない日照りはやってくる。運命の一部を天命にゆだねることに抵抗のない精神性。しかし、今回それは「天命」などではなく、あくまで他チームのゲームだったのだ。

 

文学的半生

小説を読む読書会で、事前に提出する課題のなかに「文学に興味を持っていなかったら、あなたの人生や性格は、今とどのように違っていたと思いますか」という質問があった。

参加者は、読書好きの若い人が多くて、文学のおかげで、視野が広くなったり、考えたり、感じたりする力を得たというふうな答えが多かった。文学につかりすぎて、他の人生がかんがえられない、という意見も。

僕は、どう書いていいかわからずに、以下のような答えでお茶を濁した。ただ、この質問をめぐるやり取りの中で、あらためて自分が、文学や思想の言葉がもつ力をたいして信じていないことに気づいた。たぶん、日常を耕すためのスキとかクワとかの道具ぐらいに思っているのだろう。

 

・子どもの頃から、空想癖があって、現実の設定を変えたりして、一人で空想を楽しむ。父親は文学好きなくせに、子どもが小説を読むことを好まなかったから、中学の頃、漱石の文庫本を机に隠していた。
・大学受験勉強中の息抜きは、漱石の『猫』と宇野浩二の『芥川龍之介』。大学に入って初めて購入した全集は、詩人の『丸山薫全集』。しかし、すぐに哲学、思想の面白さを知るようになり、大学の後半以降、小説をほとんど読まなくなる。
・就職後は、思想や批評の言葉が、実社会で無力なことに愕然とする。以後、実生活とは別に評論を読むのを楽しむ、という二重生活を送るようになる。50歳くらいになって、ようやくその二つをつなぐことができるようになる。すると、なぜか小説やアニメや演劇なども、楽しめるようになった。
・悔恨は深いが、どの部分をどう変えたら、別のルートをたどれたのか、想像は難しい。

 

こんな夢をみた(欠陥住宅)

自宅を建て直したのだろうか、外観も内装も見違えるようだ。しかし、いざ暮らし始めると、隣家の奥さんが、いつの間にか室内で探し物をしている。よく見ると、建物の一面が隣家とつながっていて、壁がない。ケースみたいなものを積み重ねて、仕切りにしてあるが、隙間から自由に出入りできる。一番困るのは、そこに設置された小さなユニット型のトイレのビニールの壁が薄く、隣家のキッチンから丸見えなことだ。

住宅業者が、建設費用を節約するために、隣家とつなげて建てたに違いない。僕は怒って、担当者に契約の解除を申し出た。すると、彼が、隣県(確か埼玉県と言っていた)になるが、ちゃんとした一戸建てを同じ価格で提供できると言う。僕はすっかり乗り気になって、妻と新居を見に行こうとする。

すると、急に不安になった。子どもたちには、この土地がふるさとだ。他県で就職している長男は、帰省して家がなかったらどう思うだろうか。そもそも次男は、新居から今の勤務先に通えるのだろうか、と考え始めたところで、目が覚めた。

(2018.6.24)

『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』 大澤真幸 2018

読書会の課題本。後書きを見ると、著者は講義で話をしただけで、事実誤認の修正や内容の補足を含めた、本にするすべての作業を他者にゆだねていることがわかる。だから、当然ながら、とても「雑な」印象の本だ。そして、雑であることに関して、著者はおそらく確信犯であるような気がする。

大学の若い学生に対して、社会思想や社会学や哲学の問題設定への基本的な知識と関心をもってもらうのが目的だから、各部の結論部分は、それらの手慣れた解説に終始しており、新しい問題に挑戦しようという気概はない。サブカルの諸作品は、学問の解説へとつなげるために利用しているにすぎない。作品そのものの本質を了解することは、はじめから度外視しているのだ。

おそらくサブカルの愛好者からすれば、ほとんどお話にならない読みだろうと思う。たとえば、「おそ松さん」はニートで働いていないのが素晴らしく、資本主義に対抗しており、それを後ろめたく思っているところが、もう一歩のところだ、などという話が、学問的な議論をまぶしながら、何十ページもかけて語られているのを見ると、僕などでもうんざりしてしまう。慇懃無礼、というか、すごく丁寧な牽強付会、というか。しかし、こんな突っ込みどころが、ほとんど無数にあるのだ。

大澤さんの社会批評は、昔からそんな、どこかゆるいところがあったような気がする。彼は徹底して学問の殿堂の人なのだろう。その専門領域が本気の仕事であって、それ以外は、文字通り余技なのだと思う。余技では、極端に啓蒙的であり、対象は道具的に、雑に扱われる。すぐれた学者でも、もっと血の通った文章を書く人はいる。その意味で、大澤さんは学者であっても、批評家ではないのだろう。

なんだか、とても雑な感想を書いてしまった。僕の蔵書には、難解で手をつけられなかった大澤さんの論文集が何冊もある。その恨みをぶつけてしまったのだろうか。