大井川通信

大井川あたりの事ども

いつかはクラウン

いつかはクラウン、などと思ったことはない。子ども心に、いつかはポルシェにのりたいと思ったが、それは夢みたいなものだ。ただし、周囲の大人を見ていると、年配の人は、それなりに大きくて立派な車にのっていた。だから自分もそうなるのかと、漠然と思ってはいた。

ところが、年齢を重ねるにつれて、子どもにも出費がかさみ自由になるお金は減っていくから、クルマはむしろ小さくなっていく。周りを見回すと、高価なクルマに乗っている人が多くてびっくりする。彼らは、安い中古車を探すとか苦労はしているのかもしれないが、こちらにはそういう根気も熱意もない。

数年前、前のコンパクトカーを乗りつぶした時、予算的には同じコンパクトカーを買い替えることしかできないのに気づいた。年齢的には、最後の新車だろうが、それがコンパクトカーか。いつかはクラウン、というかつての人気コピーがむなしく耳元で響く。そこで、コンパクトカーでも「最高グレード」を購入することにした。とはいえ、外見では区別がつかずに、後部にそれを示すエンブレムが輝いているのみ。

だから、エンブレムを盗られたら大変だから、夜中でも気になって駐車場の見回りをしているのだ、と冗談でウソを言ってしまうのが、僕の平常運転。それを聞いた資産家の同僚が、彼は夫婦でそれぞれベンツに乗っているのだが、本当に面白そうにけらけらと笑う。笑いが取れたら、まあ僕の勝ちだ。

クラウンや、ましてポルシェが無理でも、緑色の車を持つのが、僕のささやかな願いだった。子どもの時に、サンダーバード2号へのあこがれがあまりに強かったせいだ。色だけでなく、2号を思わせるよう丸みのある紡錘形のフォルムであることも条件だ。

20代の頃は、いすゞジェミニにイメージ通りの車があったのだが、手を出さなかった。前のコンパクトカーも緑のカラーがあって、かなり2号に似ていたのだが、家族の希望の色を優先させてしまった。今回の車には、緑のカラーリングの設定はなかった。そんなわけで、こんな小さな望みですら実現していない。自分の欲望をかなえることに、どこかで無意識のブレーキがかかってしまうのかもしれない。

 

はさみでチョキン

もう20年も前の話だが、とても気難しい上司がいた。そのうえ、ほとんど口を開かない。部下が書いたあいさつ文を読み上げるときなども、すぐに声が小さくなり後半はほとんど聞き取れなくなる。僕はほんの若造だったから、職場で彼との接点はまったくといっていいほどなかった。

その職場では、バスを借り切って年に一度職員旅行に行く。そんなときには、僕は例の調子で軽口をたたきまくっていたのだろう。ずいぶん経ってから、その上司から、「あなたが言った、はさみでチョキンというのが面白かった」と話しかけられたときには、驚いた。

バスが波佐見(はさみ)という土地を通過したとき、おそらく、ここの土地の人は金持ちだ。なぜなら、ハサミで貯金、とか言ったのだろう。なお、このオリジナルのギャグは、その後進化して、お金を貯めるのが上手な生き物はなんでしょう。答えはカニ。ハサミで貯金、という形態になっている。これなら、波佐見でなくても使えるのだ。

それがきっかけになったのか、彼と何度か哲学や宗教の話をしたのを覚えている。彼は密教が好きだと言っていたけれども、僕にはその方の知識は乏しかった。ただ家が同じ市内だったから、仕事の縁がきれた後に、そんな話を自由にできる関係になれたらいいと密かに考えたりした。しかし、彼は定年後、まもなく亡くなってしまった。

最後に見かけたのは、生涯独身だった彼が、うどん屋で母親らしき人といっしょに食事をしていた後ろ姿である。


軽口をたたく

書き言葉としては自分の中に入っている言葉だが、どう読むのかは自信がなかった。「かるくち」とわかってもまるで耳になじみがない。話し言葉としては、おそらく死語に近いと思う。ギャグや冗談という言葉がそれに代わって、なんの不自由もないからだろう。

ところで、自分は「軽口をたたく」のが好きな人間である。気を許している一部の人間関係をのぞいては、たえず冗談を言って人を笑わすことをねらっている。それはこどもの時からだが、今でも職場でなんとか若い人たちを笑わそうとしている自分に気づく。ひょっとしたら、人間関係の全エネルギーの2割くらいをそれに消費しているかもしれない。

ある時、仕事が忙しくて、笑いをあきらめて仕事にだけ集中せざるをえないときがあった。すると仕事がどんどんこなせる。周りを見ると、職場でギャグ一つ言わない人がいくらでもいる。みんなはこんなに楽をして仕事をしているのかと気づいた、というエピソードを、またまた笑い話のネタにしてしまう、という次第。

ある社会学者の説によると、人間関係とは、お互いに大小の荷重をかけ合う複雑なネットワークだけれども、「笑い」は、その荷重を一気にゼロにしてしまう驚異のメカニズムなのだという。職場における上下関係や、お互いの貸し借りの関係の呪縛を一気に解消してしまうのが、笑いだ。ひとしきり笑ったあと、また従来の関係が即座に立ち上がるわけだが、そこにはいくぶん緩みやすき間が生じているだろう。

以前、ある教員が、どんな子どもを育てたいか、という話をしたとき、自ら学ぶ子ども、みたいな一般的な目標とあわせて、「ユーモアのある子ども」を付け加えたのが印象に残っている。そういう目標はあまり聞いたことがない。その人はとてもユーモアのある人だった。笑いの効用をよく知っていたのだと思う。

 

 

車椅子からの目線

数日前に、右足のくるぶしに違和感を覚えた。アキレス腱をかくんと伸ばしてしまったような。そのあと二日間は、さほど無理している感覚もなく散歩などしていたが、昨日から足を引きずるようになって、夜にはまったく歩けなくなった。

今朝からは痛くてかかとを地面につけることもできないので、苦労して行きつけの整形外科にたどりつく。考えてみれば、半年ばかり前にも左足の膝が痛くなって通院した。その時と同様、初老の医師は、あきれたように歩きすぎだという。どうやら近年のウォーキングブームに異論を持っているようだ。

大井川歩きを標榜している以上、歩けないのは困る。こんなことが続くようでは、体重を10キロくらい落とさなくては、と真剣に考える。松葉杖を借りて車で帰る途中、大型スーパーに寄る。常備された車椅子で、店内を自由に見て回れるからだ。店内には、殺人的な猛暑を逃れたお年寄りや子連れが多い。フードコートで昼食をとってから、僕も時間をつぶす。

車椅子に乗ると、何十センチか視線が低くなる。さらに見慣れない姿はちびっ子たちの注目をひく。まるで子どもたちの世界に紛れ込んだような不思議な感覚を味わった。

ふだんは品ぞろえが貧弱だからと足をとめないスーパーの書店にも、時間をかける。背の低い書棚の実用書が、目の前でアピールするのだ。

手品の入門書か。専門メーカーのタネを買うようになる前は、こんな本をよく読んでいたな。でもこんな本で教わった手品が今でも、どこでも人を驚かせる鉄板ネタになっている。剣道の戦術の入門書? 実践的に試合に勝つための方法が書いてある。対戦の相手の気持ちを見抜くコツとか。昔はこんな本はなかった。ルールと基本動作の入門書はあったけれど。だから試合とかは無我夢中で自己流にやるしかなかった。当時こんな本があったらよかったのに、と苦労した中学校の剣道部時代を思い出してしまった。

 

 

アオスジアゲハの羽ばたき

黒いアゲハの大きくて悠然と飛ぶ姿は、優美でドキッとさせられる。しかし、それがクロアゲハなのか、カラスアゲハなのか、はたまたナガサキアゲハなのか、さっぱり特定できない。実物の特徴を頭に入れて、あとで図鑑で確かめることもあるのだが、すっきりと種類がわかったためしがない。おそらく僕は、このまま黒いアゲハの見分けがつかないままなのだろう。

しかし、ただのアゲハはもちろん、アオスジアゲハについては見間違えることはない。アゲハとしては物足りないくらい小さく見えるほど、羽は細長くスマートだ。そのスマートな羽の中央には、見るたびにおどろくほどに鮮やかなブルーの筋が入っている。夏の日向のわずかな水たまりで、水を吸う姿が印象に残っている。

それが、今日は、昼休みに散歩をする広い雑木林の中で、たくさんのアオスジアゲハを見かけたのだ。蒸し暑い遊歩道の両側の林から、彼女はなんども顔をみせた。すばやく力強く羽ばたいて、にぎやかに舞うと不意に姿を消してしまう。

そのうちの一匹は、偶然、手元の葉の上で羽をやすめる。僕は反射的に手を伸ばすと、ぴんと立てた羽をつまんだ。指先に触れる薄い羽根に、彼女がはげしくもがく筋肉の律動が伝わってくる。傷つけないように、僕は思わず手を放した。

 

サラダと尺取虫

海が見えるイタリアンのお店に、夫婦でランチを食べに行く。正直な話、そんなことはめったにない、いやそれどころか記憶にすらない。二階に上がると、眼下は砂浜で、視界いっぱいに海が広がっている。建物はかなり古びているが、海に向かうカウンター席に並んで、パスタとピザのランチを注文する。絶景に感動したのか、妻はパシャパシャと写真を撮っている。僕は得意げに、うろ覚えの島の名前を解説する。

前菜のサラダを食べていると、不意に妻が自分のお皿の端を指で示した。そこには、とても小さな尺取虫が身を固めている、ように見える。まさか。陶器の皿のデザインの一部じゃないのか。試しにつつくと、尺取虫はたまらず歩き出した。

めったにしないことをすると、こんなものだ。しかしめったに起きないことだから、妻がどんな反応をするか想像できない。激高でもされたら、気まずくなる。ところが彼女は、あまり気にする風でもなく、サラダを平らげ、皿を下げに来た店員に尺取虫の存在を告げるときも、「美味しいからサラダは全部食べちゃいました」とほがらかだ。安心して、僕も「野菜が新鮮で安全な証拠ですよね」と軽口をたたく。

すぐにシェフが謝りに来て、ドリンクをサービスしてくれた。あとからメインのお皿を運んできた店員に向かって、僕は調子にのって声をかけた。「さっきの虫は、かわいそうなので逃がしておいてくださいね」 

店員は一瞬、気まずそうな顔になって、うつむいてしまう。おそらく、すでに殺してしまったのだろう。僕は、つまらない冗談をいったことを少し後悔した。

 

 

 

『下流老人』 藤田孝典 2015

三年前のベストセラー。今回初めて読んできたのだが、出版後、この本が訴える情報について、ある程度一般化されてきたためか、ややインパクトが薄れるところがあったかもしれない。しかし、老人予備軍としては、いちいち身につまされて、いろいろ勉強になることが多かった。年齢もそうだが、様々な統計データというのは、客観的に眺めている分にはいいが、自分がある数値を持って、グラフや図表のどこか一点にくぎ付けにされているというのは、どうにも居心地が悪い。それに一喜一憂してしまう自分がいる。

著者は、日本社会の中に、貧困問題から目をそらさせるようなメカニズムが働いているという。だから、貧困は、社会問題としてではなく、個人の自己責任や甘えの問題として放置され、または個人をたたくことで事足りるとされてきた。そうして、今になって、老人だけでなく、若者や障害者や子どもの貧困の問題がそれぞれ社会に突き付けられるようになってきたが、それぞれが限られた牌を奪い合うのではなく、貧困の連鎖の問題として、正面からそれを扱わなければいけないという。

一般に高齢者は、若者に対して、既得権益をもつ者と考えられている。しかし、この本によると、高齢者も二極化されており、多くの高齢者は、他の社会的な弱者を貧困へと突き落とす動きの中に巻き込まれている。

経済的にだけ考えるならば、誰もがゆううつにならざるをえない現状だ。著者がいう「関係の貧困」(を関係の豊かさに変える)という視点にたったときに、とりあえず自分の足元から始められることが見えてくるように思う。

 

みたび、柄谷行人のこと

最初に就職した会社を3年で辞めて東京に帰ってきてから、とある塾の常勤講師として働くことになった。腰掛のつもりが居心地がよく、結局3年勤めることになる。ある程度時間に余裕があり、将来の目標も定まっていなかったので、講演会やシンポジウムの類にはよく顔を出した。その中で、柄谷行人の講演を初めて聞くことができた。

当時、柄谷には、海外の先端的な思想を理解して、複雑な逆説を駆使する特別に頭のいい思想家、というイメージがあったと思うのだが、実際に話を聞いてみると、それとはだいぶ違っていた。冷酷で神経質な印象は予想どおりでも、言葉はなめらかに進まず、どこかたどたどしい。記憶力と言葉の連射を誇る優秀な学者たちの語りとは、一線を画するものだった。柄谷はどこかで、自分より優秀な人間は多くいたのだが皆消えてしまった、ということを言っていたが、それは本当なのだろうと思う。

1987年から89年にかけて、たしか五回ほど柄谷の講演を聞いている。今思えば、批評家として脂の乗り切っていた時期で、どの講演も、新鮮な驚きと興奮を与えてくれるものだった。早稲田祭で聞いた坂口安吾論や、草月会館で開催された季刊『思潮』創刊記念シンポジウムでの固有名論など、忘れがたい。

あれから30年。その後柄谷行人はたくさんの仕事を続け、その一部を読んで刺激を受けることはあったけれど、僕にとっては、80年代の彼の輝きに及ぶことはなかった。

 

ふたたび、柄谷行人のこと

七月のうちから猛暑日がえんえんと続いたり、台風が東海地方から新幹線の下りに乗るみたいに逆走してきたり、と今まで経験したことのない異常気象が続いている。そのせいか、頭がボーっとして書く意欲がわかない。昨日の流れで、柄谷行人の小ネタで、お茶をにごすことにしよう。

柄谷の本を始めて買ったのは、大学4年の秋(正式な就職内定日のあと)だったから、在学中は柄谷にはむしろ冷淡な方だった。古書店で手に入れた『マルクスその可能性の中心』(1978)には83年10月18日のメモがある。それ以前、キャンパスに柄谷の講演会の看板がかかっていたときにも、別の用事で参加しなかった記憶がある。

しかし、そのマルクス論は、当時の僕には驚くべきものだった。大学一年で習うマルクス経済学の基礎は、ざっくりいうと、こういうことだ。労働者の労働は、市場価値以上のものを生み出す。それが剰余価値で、資本家は市場取引によって、本来の持ち主からそれを奪っている。僕は、この搾取という不正義が左翼の主張の正しさの根拠であることを知って、それが意外に簡単な理屈であることに驚いた。

柄谷の小ぶりなマルクス論は、この剰余価値の発生を、搾取からではなく、二つの価値体系の差異から説明する。遠隔交易が、外国で安いものを買ってきて、それを本国で高く売って利益を得るのと同じように、資本家は、安い労働力や原材料を調達し、それを効率的に組み合わせて生産することで、いわば価値体系の差異を自国内に作りだすことで、高く売って利益を得ているのだ。

この読み替えは、僕がそれまで触れた思考の中で、一番鮮やかで見事なものに映った。それが、ただの流行思想家と思っていた柄谷への見方を変えるきっかけになったのだと思う。

しかし、この話には続きがある。僕は、最初の会社員時代に、この本をいったん手放している。何かのきっかけで柄谷の話をした知人に、この本を譲ったのだ。この本が知人のなかでさらに大きな価値を生むことを、そしてそれが自分に見返りをもたらすことをひそかに期待したのだろう。しかし彼女はやがて不正経理で会社を辞めてしまって、そのあと偶然、彼女が勤務していた営業所のビルの一階に入る古書店で、棚に並ぶこの本を見つけたのだ。僕は泣く泣く、本を買い戻した。

さて今回、話のネタになったことであの時の元を取ったことにしよう。

 

 

 

柄谷行人のこと

社会人になって二年目の長男と電話で話をした。息子は、父親が金曜日の夜にあんなに機嫌が良かった理由がわかった、という。日曜日の午後になると憂鬱になるよね。月曜になってしまえば、その気になれるのだけど。そうそう、と勤め人として共感しながら、だらだらと話をする。

読書好きだった息子は、今でも本を読んでいるという。しかし、学生時代に夢中になった思想や論理が、社会に出てすっかり色あせてしまうという経験はきっとしているはずだ。ぼくも、仕事をするようになって、思想の言葉の無力さにがっかりした経験を持っている。それでも本を読み続けることができたのは、評論家柄谷行人のおかげかもしれない、と思い当る。

学生時代、柄谷はすでにスター思想家だったが、僕自身はとくに柄谷が好きというわけではなかった。ただ、就職して、忙しい仕事の合間に目を通すようになって、多くの思想書が輝きを失ってしまう中で、柄谷の本だけが、リアリティを持ち続けているように思えたのだ。たとえば、こんな部分。

 

「私はこう思っている。『外国文学』をやらねばならぬ。というより、一ヶ国語でも『外国語』をやらねばならぬ。文学とか文化の差異などというのは、あるいは『他者』などというのは、体裁のいい概念にすぎない。リアルなものは言語だけである。相手のコード・規則に容赦なくさらされヘトヘトになる経験なくして『制度』というものはわからない」(『隠喩としての建築』1983  281頁)

 

なれない会社員生活で、叱り飛ばされ、文字通りへとへとになりながらも、それがリアルな他者や制度と向き合う道なのだと、柄谷の言葉を読み替えることで、自分を励ましていたような気がする。

息子にそんな話をしながら、今の若い人にとってそういう書き手はいるのだろうか、と考えたりした。