大井川通信

大井川あたりの事ども

新幹線の鼻づら

自分が漠然と感じていながら、とりたてて言葉にしていなかったことを、他の人から指摘されて感心する、ということがたまにある。ある会合で、怖いモノ、の話がでたときに、新幹線の先頭部分(正式にはノーズというのだろうか)が怖い、という若い女性がいた。

新幹線は、僕が3歳の頃に開業したので、僕にとって経済成長や科学技術の発達の象徴みたいな、あこがれの存在だ。子どもの頃、未来的な形といえば、流線形だった。新幹線も、0系、300系と、流線形の度合いを高めて、素人目には500系でほぼ理想の流線形を実現している。ところが、次が、カモノハシに似ているといわれた700系である。鼻先が平らにつぶれて、お世辞にもカッコいいとはいえない。地元の区間では、今でも主役は、700系とその改良版だ。

単なる流線形ではなく、客室の確保のためのノーズの短縮や、トンネルでの騒音縮減などの要請から生まれた形状で、技術的には賞賛されるべきものなのだろう。しかし、単に不格好に見えるというのではなく、ホームで車両が入ってくるときの感覚を掘り下げれば、まさに「怖い」のだ。しかも、700系が導入されてかなり経つのに、未だに慣れることができない。つい先日も新幹線を利用したが、あらためて新鮮に怖い。

どうしてだろう。平たい鼻先が、音もなく低い位置に伸びてくるので、ホームに立っていると、防ぎようのない足払いをかけられたような気持ちになるからだろうか。正面しか見えない遠方では隠されていた鼻先が、ホームに来ると、真横から突如巨大化するように見えるからだろうか。

あれこれ考えて思い当るのは、空気抵抗を計算した複雑なノーズが、有機的に、つまり生き物の顔に見える、ということだと思う。長さが10メートルもある異様な顔をもった怪物。メカニカルな印象の500系のノーズとの違いはそこにあるのだろう。

人類は、想像もできない長い期間、自分よりも大きな肉食獣におびえ、身を守ることでかろうじて生存してきた。その恐怖が、きっと体内深くから呼び覚まされるのに違いない。

 

 

 

 

虚栄心の力を否定するものは虚栄心しかない

サマセット・モームの『英国諜報員アシャンデン』(1928)から。

「魂を悩ます感情のなかで、虚栄心ほど破滅的で、普遍的で、根深いものはありません。愛以上に破壊的です」とアシャンデンは語る。だから、ある一つの虚栄心の暴走を止められるのは、また別の虚栄心だけだと、彼は指摘する。

たとえば、人を暴力で支配して権力者として崇拝されたいという「虚栄心」を持った人間を改心させられるのは、人々と平和を愛するという聖人として尊敬されたいという「虚栄心」の力しかない、というわけである。

若いころ、何かの本で、老人になって、異性に対する欲望は衰えても、名声欲は衰えることはない、ということを読んで、あまりピンとこなかったのを覚えている。そのころは僕も人並みに、恋愛感情や性的な欲望の渦中で、それに振り回される苦しさを味わっていたから、それ以外の承認欲望など二次的なものと思っていたのだ。

しかし、今の年齢になってみると、人から認められることへの感覚は、むしろ鋭敏になっている気がして、承認を求める欲望が人間の根底を貫くものであることを実感するようになった。まさにモームが書くように、「破滅的で、普遍的で、根深いもの」なのである。

 

 

傷を負うということ

数年前、地元の自治会の役員を引き受けたことがある。なり手がなくて、仕方なくしたことだが、自分が歩ける範囲に責任をもつ、という大井川歩きの原則には適ったことだと無理に納得していた。結果的には、旧集落の役員とも知り合いになれて、よい経験をしたと思う。

一年の最後の頃には、ともに苦労した役員さんたちと親しくなって、公民館で飲み会のようなことをした。比較的新しい住宅街の自治会だから、僕より若い夫婦の参加が多い。その時、妙な話だが、猥談で盛り上がった。今になってみると、考えられないくらいあけすけにそれぞれ夫婦生活のことなどを告白しあって、笑い転げた。

職場などでのセクハラ話とは違って、不思議なことに、とてもすがすがしい感じがした。遠く昔の村の寄り合いとか、若者組とかの宴会が、もしかしたらこんなふうだったかもしれない。今の住宅街では、お互いの経歴や職業などは、まったく違うだろうし、興味関心もバラバラだろう。ただ、「性」に関することならば、互いに対等に語りあうことができる。

先日、その時役員仲間だった奥さんと、偶然顔を合わせた。彼女には、当時、小学生と幼稚園の可愛い姉妹がいて、行事などにつれてきていた。そのお姉ちゃんが車椅子に乗っている。あんなに元気に妹と走り回っていたのに。彼女は娘さんといっしょに、完治という奇跡を信じるという。僕は絶句するしかなかった。

僕たちは、傷つきやすい肉体をたずさえて、もろく壊れやすい関係の中を生きている。人とのつながりを広げて、時間をかけて生きることは、それだけ大小の傷を受け、壊れやほころびに耐えることを意味する。

しかし、このどうにも受け入れがたい事実が、力強い希望や祈りや奇跡を生みだすのだろう。

 

 

 

 

 

巨大魚の遡上

職場の昼休みに散歩していると、コンクリートで三面を固められた用水路の流れの底に、大きな魚の影を見つけた。鯉やナマズがいてもおかしくないので、まじまじと見つめると、ヒレが目立たないぬめっとした姿に、ナマズだろうと見当をつけた。しかしどこか違和感がある。少し黄色味がかった身体に、濃い褐色の大きな斑紋が並んでいて、ヘビやトカゲなど爬虫類を思わせる姿なのだ。

用水路の水かさは、せいぜい10センチくらいだろう。ナマズらしき魚は二匹いて、連れ立つように、のろのろと流れに逆らって進んでいく。身体が接するくらい隣り合ったかと思うと、少し離れて前後となる。時々、流れにそって身体を伸ばして、休むみたいにじっと動かなくなる。かと思うと、尾びれを激しく動かして、一瞬ダッシュするように前に進むこともある。つかず離れずで、お互いを意識していることが見て取れる。グロテスクな外観だが、なんだかちょっと微笑ましい。

たまに水面に口をあけて、呼吸するように仕草をする。ムナビレはたたんでいるみたいで目立たず、尾びれを左右にふって進む。水が浅いから、背中が露出してしまう場所でもゆっくりと休んでいる。付近にはアオサギも多く、このくらいの水深なら、用水路の底に舞い降りて、獲物をねらうだろう。いくら身体が大きくても、アオサギの鋭いクチバシの攻撃を受けたら、ひとたまりもないはずだ。用水路の先のため池を目指しているのかもしれないが、無謀じゃないのか。

そんな二匹の近くに、一回り小さな本物のナマズが追い付いてきて、流れに逆らって先にいってしまった。ナマズには目立つ斑点はないし、頭がもっと左右に平たく広がっていて、何よりヒゲがめだつ。やはり、二匹はナマズではない。

あとで調べると、ライギョカムルチー)だった。1923,1924年頃に朝鮮半島から日本に持ち込まれた外来魚とされる。オスとメスで協力して子育てをするというから、繁殖期以外でも、ペアで行動することもあるのかもしれない。口からの呼吸もできるそうだ。鋭い歯をもっていて、カエルやカメ、鳥のヒナまで喰いついてエサにするという。大型のサギでも反撃される恐れがあるから狙わないのだろう、と納得できた。

 

 

旧友の虚像と実像

20代の頃、東京の郊外の進学塾で、3年ばかり専任講師をしていたことがある。その時の同僚と、30年ぶりに会うことになった。待ち合わせの小さな駅のロータリーに車をとめても、それらしい人影はない。5分ほど待ってから電話をすると、さっきから階段の脇に立っている人が携帯を取り出して会話をするそぶりを見せる。それで、その人が知人であることを悟った。

想像より、遠目にはずっと若い姿だったとはいえる。だったら以前の姿に近いのだから、まっさきに気づきそうなものだ。しかし30歳の青年が、今では60歳の初老の人になっている。違っていて当たり前だ。人生をもう一回やりなおしたくらいの月日がたっているのだから。

話始めると、表情や声、話しぶり、考え方の中に、面影を次々に発見して、間違いなく彼が知人であることを納得していく。お互い様だが、歳をとっただけなのだ、と。

3時間程話して別れる頃には、今の彼の姿を知人そのものとして認識していることに気づいた。次に会う時には、初老になった知人の姿を違和感なく受け止めることができるだろう。そして、30年の間、僕の中で知人そのものであった青年時代の彼の姿は、たんなる回想上のイメージとして、急速にひからびていくのかもしれない。


✳︎実際に一ヶ月後会った時には、すんなり今の姿の彼を受け入れて、話に集中することができた。「あべこべのひと」参照

 

ひとつのネタを何度も使ってはいけない

サマセット・モームの『英国諜報員アシャンデン』(1928)から。

主人公のアシャンデンは、こう続ける。「ジョークは長居せずに気まぐれに、いってみれば、花をめぐるミツバチのようでなくてはならない。一発決めたら、すぐに離れて次に移る。もちろん、花に近づくときにかすかな羽音を立てるのはかまわない。鈍い連中に、これからジョークをかましますよと注意を喚起するのはいいことだ」

しかし、たいていの人は、一度受けたのをいいことに、同じネタを何度も続けて使ってしまう。それがプロと違うところだと、アシャンデンはいう。

英国紳士の高度な会話術には及ぶべくもないが、日常の笑いにこだわる者として、十分に参考になるところだ。オヤジギャグとののしられるのは、ネタの使いまわしと、ミツバチの軽やかさをもたないことが原因だろう。

しかし、たとえオリジナルのジョークであっても、気恥ずかしさからなのか、真顔のまま、まるで唐突に口にしてしまって、受けるどころか周囲を戸惑わせてしまうオヤジもいる。正直にいおう。僕がまさにそのパターンだ。

「花に近づくときにかすかな羽音を立てよ」というアドバイスは、名人上手ならではの絶品の比喩。脱帽するしかない。

 

人は揺り籠から墓場まで、束の間の人生を愚かに過ごして命を終える

サマセット・モームの『英国諜報員アシャンデン』(1928)から。

モームの小説は面白い。モームの描く人物は、どれも魅力的だ。大衆的でわかりやすく、極端だったりするのだけれども、人間というものの根底を押さえているから、命を吹き込まれているかのようなリアリティがある。それを支えているのが、モームのとびきりシニカルな視線だろう。

今、英文に訳された浄土真宗の本を毎日少しずつ読んでいる。日本語のあいまいさを振り払った訳本はシンプルで核心を突くが、それゆえに弱点も明らかになる。人間は、無知だ、愚かだ、のオンパレード。しかしその本質は、とても抽象的な無知であり愚かさなのだ。だから信仰により、たやすく無知が法や真理へと反転してしまう。無知なり愚かなりのままで、それを抽象的に救い取るような仕掛けが張り巡らされているのだ。

モームが描く人間の愚かさは、抽象的に否定したり、それを反転させたりすることのできない、具体的な愚かさそのものだ。愚か、と突き放して、それ以上どうすることもできない愚かさ。人間の存在可能性としての、存在条件としての愚かさ、とでもいおうか。読み手が、身につまされて、立ちすくまざるをえない愚かさ、である。

そこから一気に立ち去る、ということではなく、その愚かさ一つ一つの手触りを確かめ、抱きとめ、なぐさめ、ともにあることを否応なく選び取る。モームの軽快な語りの根底には、そんな覚悟があるような気がするのだ。

 

 

基礎研究と体験活動

今年も、日本人のノーベル賞受賞者が誕生した。ひと昔前は、手放しで賞賛して、あげくにはアジアの諸国への優越感を振り回すような論調まであったが、ずいぶん冷静な受け止め方に変わってきたように思う。現在の受賞は、かつての研究の成果なのであり、目先の効果や利益にとらわれて、基礎的な研究をおろそかにするようになった現状では、今後ノーベル賞級の研究成果は生み出せないのではないか。研究の現場を知る人たちから、現状への批判の声があがるようになった。

教育の世界でも、エビデンスというカタカナ言葉が流行語になり、目先の効果を数値化して見せることが、正義となる風潮がはびこっている。数値化しにくい教育の分野については、その重要性が訴えられても、制度面、予算面では後退を余儀なくされている。全国でも、老朽化により自然体験施設が減少していると聞く。

あるいは、自然体験活動が豊富な子どもは学力が高い、というような本末転倒な調査結果がもっともらしく取り上げられたりする。学力の高い子どもを育てるために、手段として自然体験を取り入れようとでもいうことなのだろうか。

いうまでもなく、自然とのかかわりをはじめとする体験のすそ野のうえに、様々な人間的な活動の高みが生み出されるのだろう。基礎的な体験のベースが崩壊したり、空洞化したりしている現状は、どんな大人でも直観的に気づいていることだ。その直観がないがしろにされながら、一方で、「学習の成果にお小遣いをあげたほうが学習効果があがるかどうか」などという「研究」がまかり通っている現状は悲しい。

 

 

『英国諜報員アシェンデン』 サマセット・モーム 1928

ちょうど一年前から、小説を読む読書会に参加するようになった。月に一冊とは言え、小説を手に取る機会をえたのは大きい。ついつい批評家気どりで、理屈をあれこれつけることに夢中になってしまうけれども、純粋に楽しんで読める作家にも出会うことができた。

モームは、文庫本で4冊目になるが、どれもはずれなく面白く、読むのが遅い僕でも、数日で一気に読み切ってしまう。身体の奥に眠っていた(10代の頃の)物語の世界にひたる喜びを呼び覚ましてくれるみたいだ。

スパイ小説という先入観があったのだが、ほとんどそれらしくはない。作家本人をモデルにした作家兼諜報員の主人公の眼を通して、次々に特異な人物の肖像が描かれる。戦争や事件は背景であって、作家が目をこらすのはあくまで人間なのだ。

エジプトの王子に長年使える老婦人ミス・キングの胸の内にある祖国イギリスへの思い。母国メキシコでの革命の夢と女性への愛を雄弁に語る殺し屋へアレス・メキシカン。高潔なインド独立の闘志が、平凡なイタリア人の踊り子と愛し合ったために、英国のワナにはまって命を落とす顛末。ドイツ人の妻を愛するあまりに、母国を裏切る諜報活動を行い、危険な任務で身の破滅をまねくイギリス人記者。英国大使の上流階級の外交官としての理想的な姿の裏側にある、粗野な曲芸師の女を一方的に愛した過去。シベリア鉄道の旅を同行したアメリカ人ビジネスマンの一本気で愛すべき性格がもたらす悲喜劇、等々。

これらのキャラクターが、第一次大戦中の世界情勢、中でもロシア革命勃発時の諜報活動を舞台として描かれる。もっとも、詳細なキャラクターの描写に対して、政治的な事件や情勢については、一筆書き程度の説明しかない。作家はこの現場に立ち会っていたにもかかわらず。だからこの小説に歴史を読もうとすると、やや物足りないかもしれない。

 

 

ファミレスあるある?

週末、妻に電話を入れる。「今週やっと終わったから、帰りジョイフルに寄ってきていい?」「いいよ」 ジョイフルでは、いつでもドリンクバー付きのモーニングが注文できる。ワンコインでモーニングを注文し、ドリンクバーを飲み継ぎながら、好きな本を読んだり、物思いにふける至福の時間。普通のおじさんなら、居酒屋とか焼き鳥屋なのだろうけれど。

昨年、東京に帰省した折に赤坂に小劇場の芝居を観に行った。時間調整で吸い寄せられるように入ったお店は、やっぱりジョイフル。ここでもモーニングを注文すると、料金は全国均一で、当時の最安値は400円弱。相当地価や賃料は高いはずだが、大丈夫なのかジョイフル。

国会の質疑で、心無いヤジをとばしたという記事を見て、ジョイフルの経営者が自民党の代議士になっているのを知る。禁煙を訴える肺がん患者に対してだ。そういえば、ジョイフルの禁煙席は、入って右か左かで分けているだけで、かなりいい加減だ。もう行ってやるもんか、と一瞬思う。

昔から、安かろう不味かろうというイメージのあったジョイフル。今年になって「しんけんハンバーグ」という商品を主力にして、価格帯を引き上げている。確かにそれまでのハンバーグに比べてかなり美味しくなったが、しかし、今までは「真剣」に作ってなかったのか。それはどうなのか。

年長の友人と、いつものようにジョイフルで会おうとすると、今回は別のカフェにしようと言われる。奥さんから、いい年をした男二人が、ジョイフルでお茶を飲んだりするのはみっともない、と忠告されたらしい。そういうところなのか、ジョイフル。

昨年10月から、毎日書くことに決めたブログも、今日で一年。気ぜわしい日常の中で、思考する時間と空間を提供してくれたジョイフルに多謝!