大井川通信

大井川あたりの事ども

いじめっ子と妻(その2)

妻の小学校の高学年の時の担任は、新任の男の先生だった。ひどいいじめにあっていたとき、その担任の先生から、「お前は強いなあ」と言葉をかけられたことを覚えていて、それが救いになったという。先生がどういう文脈で声をかけたのかはわからないが、妻は自分の気持ちがわかってもらえたと感じたのかもしれない。

その先生のことをとても懐かしそうに話すものだから、いつか会わせてあげたいと思っていたのだが、少し前に島の小学校の校長を最後に退職されたことを知った。それで昨年ようやく学校に連絡をとり、先生の了解をいただいた上で、先生宅に二人で訪問することになった。

20代の若手教師も50年近くたてば、風貌が一変する。妻はとうとう最後まで当時の面影を見つけられなかったようだ。先生は妻を教えたあと若いうちから市教委の教育センターなどで仕事をして早くから管理職になったから、学級担任として送り出した卒業生の数は多くはない。そのために妻のいたクラスのこともひとりひとりとても良く覚えていた。おだやかで情熱もあり、とてもよい先生だったのだろうと思う。

その日の訪問で、僕にはとまどったことがあった。妻は、小学校時代の恩師を懐かしみ、当時の励ましに対して感謝をするのだろうと思っていたし、たしかに前半はそんな感じだった。ところが昔のいじめの話をするなかで、当時を思い出した妻が顔をしかめ、「あの時もう少しなんとかならなかったのですか」と少し先生を責めるような口調になったのだ。先生は、なんともいえないような表情をして黙っていた。

そのあと門の前で見送ってくれた時の表情にも少し暗い影が差している気がして、僕は先生に申し訳ないような気持ちがした。妻も、そんな風に話すつもりはなかったのだという。無意識のうちに、いじめを認識しながら十分な対応してくれなかった先生に対する不満をもちつづけていたのかもしれない。先生にとっても、その時の対応が教員人生の中の無意識の傷となっていたのかもしれない。

暴力とそれによる傷は消えることはないし、それはいつまでも人を害し続ける。

 

 

 

いじめっ子と妻(その1)

風邪で体調が悪く昼間から寝ていると、妻が買い物から帰ってくる。少し興奮して、小学生に怒ってやったと言っている。

話を聞くと、小学3,4年生くらいのグループが下校中に、ある男の子が、一人の子に対して、「お前を今度から〇〇と呼んでやる」としきりにからかっている。「そんなこと自分がいわれたらいやでしょ!」と、うしろからしかりつけたという。男の子は、「はい」とばつの悪そうな顔をしていたそうだ。同じ住宅街の子どもだから、ふつうなら遠慮して見過ごしてしまうかもしれない。

妻には昔から妙に正義漢の強いところがあった。長男の幼なじみが中学に入って荒れて、いろいろ問題を起こしていた時も、外で平気で注意していたようだ。住宅街で竹刀を振り回して自転車に乗っていたときには、危ないでしょと怒ってやめさせ、バスで会ったときも暴力団ややくざになったらいけない、と説教したらしい。妻曰く、子どもの頃、障害のある次男をかわいがってくれたりして、根はいい子どもだから。

妻は、小学校高学年の時にひどいいじめにあっている。クラスの女子のグループのターゲットになり、盗みの濡れ衣を着せられたりして、食事もとれなくなった。半世紀近く前のことだから、学校にいじめ対策なんてものはない。

祖母が見かねて、同じ市内の実家に住所を移し、違う校区の中学に進学させてくれた。おかげでいじめはピタリととまり、その中学での学校生活は楽しい思い出となったらしい。今でも中学の友人とは付き合いがあるようだ。

ところで、小学校でひどいいじめを受けながらも、その時救いになったのが、当時先生になりたての若い担任の男性教師の存在だったことは、結婚当時からたびたび聞いていた。だからできれば会わせてあげたいと、ずっと思っていた。

 

 

 

こんな夢をみた(戦闘機)

正体不明の風邪に苦しんで、職場を休み、まる一日横になっているとき見た(悪)夢。

年末。職場ではあわただしく仕事をしている。僕の手元の分厚いノートには、仕事上の重要なメモが書かれているらしく、これで来年は頑張ろうと意気込んでいる。

独身の頃なのか、一人で年末の帰省。両親が迎えてくれる。姉がまだ帰っていないので、大通りまで迎えにいくと、姉はお年玉の用意をしている。隣に住む親戚の子ども用だ。さすが気が利くと、金額の相談をして、文具屋でお年玉袋を買う。

実家の隣の原っぱに出て、鳥が飛ぶのを見ている。すると、意外にも上空に戦闘機が現れる。〇〇だな、と機種を確認して興奮していたが、やがて戦闘機は、機首をこちらに向け、ゆっくりと舞い降りてくる。垂直離着陸機なのだろうか、そのまま隣家の屋根の上に降りてしまうと、パイロットが機体から出て来る。

明らかに僕をターゲットにしてきたのだろう。僕は、屋根の上のパイロットに向かって、必死に弁解を始める。以前にも同じような嫌疑を受けたが、そのときも疑いははれていること。首にかけているのはバードウォッチ用の双眼鏡で、他意はないこと。

弁解が聞き届けられて、戦闘機が戻っていったかどうかはよく覚えていない。


『ビルマ敗戦行記』 荒木進 1982

亡くなった父の蔵書には、文学書のほか、昭和史や戦争に関する記録が目立つ。実家をたたむので、僕も思い入れのある詩集などを持ち帰っていたのだが、今回ちょうど吉本論を読んでいたせいだろうか、戦争体験の手記が気になって、何冊かもちかえってみた。こんな偶然がなければ、古本屋にまとめて処分されていたことだろう。

子どもの時に、父親から軍隊の話は繰り返し聞かされていた。当時は戦争のドキュメンタリー番組なども多く、かかさずそれも見ていたので、日本軍の話は食傷気味だったのだ。しかし、両親も亡くなり、世の中の世代交代がこれだけ進んでいくと、戦争体験を聞かされて育ったのは貴重な経験だったことに気づく。と言っても、断片的な情報ばかりが耳に残っており、通史的、体系的な知識があるわけではない。それを補いたい、という気持ちがでてきた。

この書は、敗戦後30年以上経ってから、はじめは著者が家族と自分のために書いた戦争の記録を、岩波新書から出版したものだ。出版に際しては、「一兵隊の生活感覚」を記録した類書がないことを動機にあげている。

著者は大正3年(1914年)生まれで、昭和19年の6月に3度目の召集令状を受けて、若い妻と生まれたての長男を日本に残し、敗色濃厚な激戦のビルマ(従軍33万人の内19万人が死亡という)に送られる。そこで「帝大出の一老兵」として、約1年間の敗走の記録と、敗戦後21年6月に帰還するまでの捕虜生活の記録が主な内容となっている。

著者は戦後大企業の重役を勤め、ビジネス書を執筆している社会的な「成功者」であるが、その彼がなぜ戦後30年もたってから、最下層の兵隊だった当時の生活記録を出版したのか、なぜ彼が類書がないことをなげいたのか、なぜこの著書が版を重ね、父親の数少ない蔵書の一部となったのか等々、いろいろ想像は膨らむが、言葉にするのは、もう少し知識を蓄えてからにしよう。

20艘の輸送の船団のうち、敵軍の攻撃を免れて無事戦地に着いたのは著者の乗る一艘だけだったが、たまたまその船が魚雷を交わす操船がうまかったからという理由もすさまじい。

運悪く招集されて死を免れない自分の境遇を、理屈ではどうしても納得できなかったが、何かの折にフッと吹っ切れて、動物のように何も考えなくなり、兵隊として強くなったという経験は興味深い。

宿舎を提供してくれたビルマ人との交流等も書かれていて、著者の人柄からか抑圧や支配をうかがわせる記述はない。しかし、当時は大前提だったのだろう他国での軍事行動という事実が、今の時代には、どうしようもなく倒錯して正義に反したものとおもえてしまう。その前提にのっている著者を批判的な目でみてしまう。

イギリスによる捕虜生活は、比較的穏やかなものとして描かれている。軍隊には大工も職人もいて、英兵の要求する小屋も家具やモーターボートまで作ってしまう話。著者は刀研ぎの技術を磨いて、身を立てる。楽器をつくり、楽団ができる。演劇関係者もいて、演芸大会では歌舞伎や現代劇の芝居も上演する。見事な女形を演じる兵隊もいたそうだ。

厳しい軍隊生活を通じて、著者は、「手職においても、体力においても、世間的な気配りにおいても、私は至って取り柄の少ない人間であった。少々学があるくらいで、そんなことは人間の値打ちにはあまり関係がない」という認識に達する。彼が庶民である「一兵士」の視点にこだわるのは、おそらくその認識を終生持ち続けたためだろう。

 

「塩を編む」 渭東節江 (糸島国際芸術祭2018)

一年前に、八幡の古い木造市場を舞台に行われた現代美術展で、渭東さんの作品を観た。築後70年が経つ市場は、そのままで人々の歴史がしみ込んだ魅力的な環境だ。美術家たちは、その雑多なイメージを上手く取り込んだり、お店の歴史を引用したりしながら、視覚的に見応えのある作品をつくっていた。

その中で、渭東さんがまったく別のアプローチをしていたのが印象に残っている。市場の主役は、工場労働者の家庭を支える女たちだ。女たちは、工場の吐き出すばい煙に苦しみながらも、日々市場に通い、家族の生活を支えてきた。渭東さんは、かっぽう着を材料にしたオブジェなどによって、彼女たちの生活の歴史を作品にとりこもうとしていたのだ。

今回の芸術祭のテーマは、「マレビトの通り道」ということだが、ここでも渭東さんは、マレビトというあいまいで通りのいいイメージの底に、具体的な生活者の姿を見出そうとする。唐津街道を実際に往来した、シガと呼ばれる女行商人がそれだ。シガたちは、街道の先々のトクイと呼ばれるなじみのお客へと魚をとどけた。

渭東さんの作品は、今津湾の海水で作った塩や、紙の糸で編んだ船、天球儀、海図等が並べられ、それらのモノの配置を通じて、(不在である)行商の女たちの生活にこそ光源を当てようと仕組まれている。おそらく観る者には、自立的な作品を視覚で味わうという鑑賞法とは別種のかかわりが必要とされるだろう。

会場は、無人駅の小さな駅前広場に面して開かれた、まるで待合室のような小屋で、渭東さんの作品にはとりわけふさわしい場所のように感じられた。

 

 

「つりびとのゆめ」 鈴木淳 (糸島国際芸術祭2018)

大井川歩きを始めてから、身近な里山の中へ足を伸ばすようになった。目標は、山頂にまつられたホコラや古墳などである。足を踏み入れて、想像したこともない異世界が身近にあることに驚いた。そもそも里山の入り口はわかりにくいし、正式な山道でもないから、はたして部外者が入っていいのかもわからない。

鈴木さんは、山道の脇の枝等に張り渡された白い紐一本で、観る者を里山の内部に導いていく。入口には小さな鳥居があるから、もともと侵入することへのハードルは低い場所とはいえる。しかし、急傾斜の山道には石段などなく、重機で切り開いた道の両側には、竹がびっしり密生している。気楽な散歩のつもりなら、すぐに引き返したくなるはずだ。様々な形状の大木の根元がならぶ様子は、異世界の巨大生物の棲み家にまぎれこんだ錯覚を起こさせる。山中にごろごろと巨石も多い場所だから、いっそう不可思議の思いはつよくなる。

ここではゆらゆらとか細い紐が、実に確かな導き手となる。導くという役割に徹して、里山の景物の存在感を少しも邪魔することがない。(里山のふもとの屋敷の展示室では、この導き手の紐を主役にした映像作品を観ることができる) 

ところどころに控えめに置かれた人形や玉やモールなども、大海に浮かぶ小さな浮きのようで、かえって里山の空間の深さを示しているようだ。

山頂の巨石をまつった神社をすぎて、すこし下がったところのホコラの入口に白い紐の先は結ばれている。これが神様の釣り糸ならば、ここにたどりついた者は、神につりあげられた魚ということになる。しかし、現在の神々は、もはやそんな信仰の力はもたないだろう。

ここに僕たちを導いたのは、「芸術祭」と「現代美術」という制度の力なのだ。この新しい文化の力を借りることで、里山と巨石というかつての生活と信仰の現場と我々とを引き合わせた鈴木さんの計略には、舌を巻かざるをえない。

「つりびとのゆめ」が終わって、下り坂に入ると、あたりは針葉樹が等間隔に植林された単調な斜面となる。そこには電柱のような針葉樹にテープを巻き、多くの樹木同士を何重にも紐で結び合わせた作品が設置されていた。造形的な面白さや、森の一部を結界のように囲うことの効果を狙ったものかもしれないが、たった一本のたよりない紐で里山全体を釣り上げた鈴木作品の「ゆめ」の強度には、はるかに及ばないものに見えた。

 

 

父親と吉本隆明

ある吉本論について、吉本を持ち上げるばかりで、吉本についての全体的で総合的な認識をつくっていない、それは吉本の精神にかなっていないのではないか、と批判を書いた。僕自身たいした読者ではないが、長く吉本が気にかかってきた者として、自分なりの吉本のイメージをぼちぼちメモしていきたい。

僕の父親は、吉本と同じ1924年大正13年)の東京生まれだった。渋谷で生まれて転々と住居を移したと聞いている。戦前の文学青年で、中也や朔太郎の詩集は最期まで手放さなかった。旧制中学(日大二高)までの学歴だったけれど、日本の古典や宗教者についてはずいぶん専門的な本を読んでいた。父の兄は、商大(一橋大学)に進学しているから、実家には多少資力はあったのかもしれない。若い頃寄席が好きで、名人文楽に入門を志願したこともあったそうだ。ぎりぎり軍隊にとられたから、死は意識しただろう。軍隊生活のつらい思い出についてはずいぶん聞かされた。神道天皇や体制を嫌い、家族で神社にお参りに行った記憶はなかった。180cm近い大男で、僕が子供の頃は、隣町のミシン工場に自転車で通って働いていた。

吉本隆明を読むと、自分の父親とどうしても重なってしまう。物心ついたときにはすでに戦争の時代であり、20歳過ぎに敗戦を迎えて価値観の崩壊体験を経て、焼け野原の東京とその復興を経験し、高度成長の時代をになって消費社会を迎えるという戦中派の経験は、やはり特別にまれな体験だったのだと思う。文学を頼りに、一庶民として生き抜いたという意味でも、吉本と出発点は共通している。

僕は、父親について正直わからないところが多い。時に饒舌に話をする人だったが、本音の部分に触れたような気がしない。戦争体験以外、戦前の暮らしのことも、戦後復興期の時代の話もほとんど聞いた記憶がない。今から振り返ると、体験の異質性ということが大きく阻んでいたのではないのか。

僕が時々でも、吉本の本を開くのは、吉本を通じて、自分の父親を理解しようとしているためなのかもしれない。それは、基本的にとても異質で隔絶した体験を理解しようとすることだ。一部の読者のように吉本の視点に同一化したいとも、それができるとも思えない。

 

 

 

LGBT(性的少数者)をめぐって

職場でLGBTについての研修会があった。こうした場で当時者の話を聞くのは何度目かである。そこでの、ざっくりした印象。

僕は80年代前半の学生の時に、東京郊外で、「障害者」自立生活運動とかかわりをもった。90年代以降は、被差別部落の運動と断続的にかかわりをもっている。00年代以降、「障害者」の親として学校や社会とかかわりをもってきた。

日本社会は、差別の問題については陰湿な村社会で排他的である、という考え方もあるし、それはかなりの程度事実だろうと思う。そのために、差別をめぐる運動も、どうしても過度に告発的となったり、社会自体の悪い面の写し絵となってしまう場面もあった。そのなかで試行錯誤の歩みをしてきたのだろうと思う。

LGBTが新しい人権問題として注目を集めるようになったのは近年だ。文化や個人の感覚の根っこに触れる問題だけに、解決には相当に大変はプロセスが必要だろうと漠然と感じていた。実際に現場では、当事者をめぐる困難にほとんど手がつけられていないような状況だろう。

にもかかわらず、社会の表面的な動きだしは、想像以上にスムースである気がするのだ。企業や行政の表向きの対応が、社会の内実の変化を置き去りにして、やたらにスマートであるように感じられる。

若者の文化の変化やグローバリズムの影響などで、性の問題についてのハードルが下がってきているのかもしれない。しかしそこには、もっと根本的な社会の在り方の変更があるように思えてならない。

かつて、差別をめぐる運動は、正義の実現を目指していた。正義が実現していない現状は不正義と断定されるから、どうしても、社会内部の対立をあおる結果となった。善と悪。味方と敵。

今、社会は流動的となり、新たなニーズを発見して、そこで価値を生み出すことに血道をあげるようになった。そうした企業の動きに行政も追随する。新しいニーズに対応して乗り遅れないようにする振る舞いが、いわば正義となる。

LGBTの問題は、社会のあらたなニーズの提起という文脈に上手くはまっているような気がする。この問題にいちはやく対応することが、企業の市場価値を高める、というふうに。「障害」の問題も、学校教育の中では、新たな支援(ニーズ)に必要な対応ということで、かつてよりかなり前向きな動きがみられるようになった。

そこにもはや正義の看板はない。しかし歴史を振り返ると、その看板の下にずいぶんいい加減でひどいことも行われてきたのも事実だ。しょせん不完全でこわれものとしての人間、是々非々で前にすすんでいくしかないのだろう。

 

 

 

 

 

吉本隆明の講演会

講演会で、吉本の話を二度聞いたことがある。1985年に、初めて吉本の姿を見たときの印象は強烈だった。マイクの前にたったのは、いかつい職人のような男で、話し始めても、語気が強くまわりくどい例の語り口だったから、これがあの吉本隆明なのかとあてがはずれたように思ったのを覚えている。

テーマは、「高度資本主義とは何か」というものだったが、経済のデータを使いながら、地味にそれを解説していくもので、「未知の超資本主義」というような大仰な言葉使いをのぞけば、内容に特別な新鮮味があるものではなかった。

ただ、これが吉本らしさなのだろう、と納得できるところもあった。彼は、個々のデータをてがかりにしながら、全体的な社会のイメージを作り上げるプロセスを語ろうとしていた。そして、聴衆に対しても、各人がそれぞれに社会のイメージを作ることをしきりに促していたのが、耳に残っている。

しかし、当日何より驚いたことが別にある。この講演はその後単行本の講演集に収められたが、本からこの驚くべきことは読み取れない。多くの吉本論からも伺い知ることができない事実だが、意外に吉本を理解するうえで大切なことのように思うのだ。

講演では、経済白書から10枚近い図表を用意していたのだが、それらはすべて模造紙にフリーハンドで書かれたものだったのだ。グラフも表も歪んでいて、目盛りは目分量でつけているため間隔がまちまちだ。近代的な大ホールの数百人の聴衆に対して、手書きの模造紙を広げて説明する吉本の姿は、異様だった。

もちろん、パワーポイントなどない時代だったけれど、スライドぐらいはあったと思うし、何より定規を使わない理由がちょっと想像できない。

僕が吉本を読むようになって以降、反核や反原発への批判やオウム真理教麻原の擁護など、なにかと吉本の発言に注目があつまり、それらをいぶかる声も多かった。しかし、その背後には、あの吉本が間違えるはずがない、という「無謬神話」や、吉本は「戦後最大の思想家」という思い込みがあったような気がする。

大ホールの聴衆の前に、まったく悪びれることなく、手書きの歪んだグラフを提示できる前時代の風変りなオッサン、というのが吉本の真の姿である気がする。もちろん、このオッサン、大変なオッサンなのではあるが。

 

 

『最後の吉本隆明』 勢古浩爾 2011

読書会の課題図書で読む。僕より少し若い人による選定。世評の高い吉本を知っておきたいという動機からのようだった。もし吉本コンプレックスというものがあるなら、そんなものは必要ないことをいいたくて、多少力を入れて読んでみた。

吉本の忠実な読者による本で、まだ吉本が存命中に書かれたみたいだから、まるで吉本へのラブレターのような本になっている。著者自身は吉本論として異色であると自負しているが、70年前後に吉本に夢中になった世代の平均的な感覚を反映している気がする。主要三部作の理論はさっぱりわからない。ただし左翼の権威をまっこうから批判する姿は痛快だ。運動や知識に染まっていない、ただの人間の価値を主張するのには目が覚める思いがするし、自分の存在を認めてもらった気がする。

しかし、この本で吉本自身のことが本当によくわかるかというと、それはまた別の話だ。吉本の主張や思想について、「空前絶後」「誰もいったことがない」「凡百の知識人と次元がちがう」等の、吉本の唯一無二性を断言する飾り言葉が、論証抜きに繰り返される。これを省けば、本が三分の二くらいの厚さになってしまいそうだ。

吉本にももちろん、良い所と悪い所がある。吉本の忠実な信奉者は、吉本の悪い所をグロテスクに引きのばして身にまとってしまうところがあるみたいだ。吉本の「無敵性」や唯一無二性を強調するのは、吉本本人がそういう言い方を好んだことに原因があるだろう。

吉本の弱点として、今の時代からみると、他者との議論が苦手なところがある。他者からの批判を人格攻撃と勘違いして、自分からもレッテル貼りや人格攻撃で反撃するという、いかにも旧世代の日本人らしいところだ。当時の吉本ファンは、この罵詈雑言を喜んだというが、ふつうの感覚でよめば不快なだけである。しかし著者は、「罵倒句」を長々と引用して、見事な表現である、とベタ褒めしているのにはちょっと恐れ入る。

吉本への思いはわかる。しかし、これでは、かんじんなところで吉本の精神と背反しているとしか、僕には思えない。僕にとっては、自分の頭で考えろ、というのが吉本からの一番のメッセージだ。自分が現にいる場所で、可能なかぎりの努力をして、できるだけ全体的で総合的な認識をつくること。そういう励ましが確かに吉本にはある。

その精神は、吉本の思想を相手にする時でも、同じであるはずだ。吉本の唯一無二性や絶対的な信頼性を言いつのるばかりで、著者が、そういうまともな作業を放棄しているようにしか見えない。それでは、吉本の思想を次代に伝えることすら難しいだろう。

たとえば、著者は「普通の人」や「ただの人」の生き方に価値があるという思想は、吉本以前にはなく、今後もそんな思想は現れないと断言している。しかし、本当にそうか。今の現実に目を向ければ、今の若い人たちの感覚が、まさに吉本の思想と近いことに気づくはずだ。そのことを考えずに、吉本の思想が持つ意味をとらえることはできないと思う。