大井川通信

大井川あたりの事ども

ホコラを修復する

小さな木造のホコラの修復作業で、一日大工仕事をする。生涯はじめての事だ。宮大工の末席のそのまた末席に連なったみたいで、うれしい。

津屋崎の旧玉乃井旅館の玄関脇にある恵比寿様の修復を行うプロジェクトに応募したのだ。寺社建築に実績のある建築士と現場棟梁の指導も受けられる。毎回玉乃井主人の美味しい昼食もいただける。

日本建築史の勉強や宮大工の仕事にあこがれをもった時期のある僕には、身近でのこんな企画は、まさに願ったりかなったりのものだ。生来の不器用さで苦労するのは目にみえていたが、そんなことは問題じゃない。

ホコラのある旧玉乃井旅館の主人安部文範さんとは20年来の友人で、旅館での美術プロジェクトに参加したこともある。「玉乃井の秘密」という寸劇を書いたことすらある。こんな特別な形で玉乃井に関われるのも感慨深い。

このホコラは近隣の住民によって信仰されてきたものだ。この5年ばかりの大井川歩きで、道端のホコラや石仏、石塔などの小さな神々の存在に魅かれて、そのエピソードを調べて絵本にしたり、自分なりに考察を深めてきた。今回のプロジェクトでは、修復後に神様を新しいホコラに移す「遷座式」を行うそうだ。これを機会に、途絶えてしまった近隣の信仰が復活するかもしれない。街角の小さな神の帰趨についても、じっくり観察してみたい。

全くの偶然だが、今回のプロジェクトは何重もの意味で、僕の経歴や関心とつながりをもっている。企画者に感謝するしかないが、それにしても思う。今年に入ってから、諸星大二郎さんに会うことができた。太陽の塔を見て、大阪万博を体感することもできた。こうして古建築の修復に加わることもできる。長く生きるのも、悪いことばかりではない。命を与え、支えてくれるものに多謝。

 

向山洋一氏の教師修行

向山洋一さん(1943-)は、教育技術法則化運動で名高い教師で、たくさんの著書を持っている。彼が新任当時、我流で始めた教師修行について書いているものを読んで、その内容が強く印象に残った。優秀な教師ならば、そのことの意味が即座にわかるのだろうが、部外者にはとても「異様な」ふるまいに思えるのだ。

子どもの帰った教室で、その日の教室での会話と出来事の全てを思い出す、というのがそれだ。はじめは、印象的なところは思い出せるが、日常的なあれこれは思い出せず、今日の出来事も昨日や一昨日の出来事とごっちゃになっていた。社会科の時に15名くらい発言したとは思い出せても、それが14名なのか、16名なのかはっきりしない。

「僕にとって長い時間の末、子供たちの発言がくっきり思い出せるようになってきた。その時の子どもの表情も周りにいる子の表情も見えるようになってきた。それは思い浮かぶのではなく、向こうから押し寄せてくるのだった。鮮明に像が浮かび上がり、それと関連して場面が次々と浮かび、そして全体の姿がくっきりと映し出されるのであった」(『教師修行10年』)

他のどの職業でも、こんな「修行」が必要なものはない。教育の部外者は、この「異様さ」をよく心にとめておくべきだと思う。さらにかんじんなのは、向山さん自身、この修行はあくまで基礎的、入門的なものという位置づけで、多くの著書で触れるのは、もっと実用的な技術や法則という点だ。

一対一での顧客や上司との会話の要点を記憶してメモしておくようなことは、どの職業でも求められることだろう。しかし、たくさんの子どもたちの発言や様子をもれなくその場面ごと記憶しておく、ということは、はるかにそれを上回ることだ。

この修行のエピソードは、教育現場の「一者対多数のコミュニケーション」がいかに困難であるか、「聖徳太子的な異能」の獲得がいかに大変なものかをよく示していると思う。

 

聖徳太子とプロ教師

学校の教員と接するようになって、驚くのはその技量の差である。まさにプロと呼べるような先生がいると同時に、素人同然の授業しかできないベテラン教員もいる。本来はすべて専門家であるはずの教員の世界の中で、「プロ教師」などという呼び名がリアリティを持つことが、この事態をあらわしている。

通常の職業で、これだけ技量の差がある職業はまれな気がする。それはなぜなのか。これは、彼らの仕事内容を偏見なくみればすぐにわかる。

教師の仕事が、1者(教師)対多数(子どもたち)のコミュニケーションという、特別に難しいコミュニケーションをあつかっているためだ。一般の仕事の場面では、多数の人間も組織化されており、一対一のコミュニケーションがベースになるように組み立てられている。少なくとも、部下が一時に話しかけてきて困ることはないだろう。

歴史上の偉人聖徳太子には、一時に10人の人の話を聞くことができたという逸話がある。普通の人間にはない塔別な能力だからこそ、伝説となっているのだろう。だとしたら、数十人の子どもと日常的にコミュニケーションをとる教師は、聖徳太子以上の異能者ということになる。

僕は、教育の世界を外から見て、この認識を持つことが現在の教育問題を理解する上でのカギであることに気づいた。社会の側は、一対一のコミュニケーションベースでしか教師の仕事を想像できないから、それを簡単に考えがちで、いったん問題が生じると、「なぜいじめを発見できなかったのか」などと安易に非難する。

一方、教育の側も、この点に十分自覚的でない。聖徳太子以上の能力が要求される職場環境で、それに何とか対応できたプロ教師と、そうでない普通の先生との技量の差が大きくでるのは当然だ。教育大学や、教育行政の世界で、このコミュニケーション環境への対応を主眼においた研究や教育が行われているわけではない。

昨日紹介した友人の大学講師の試みは、このポイントを正確についたものだと思う。おそらく彼は、ともすれば一方通行に(つまり疑似一対一のコミュニケーションベースに)陥りがちな大学の講義を、小学校の教室で培った様々な技法を駆使して、一体多数のコミュニケーションの場として活性化させているはずだ。その上で、受講者に批評コメントを求め、それに基づく議論を提起することで、この特別なコミュニケーションのあり方を自覚し、それをわが物とするように促す。

いったんコミュニケーションをメタの立場から俯瞰する視線を獲得すれば、おそらく日常のあらゆる場面が、訓練や気づきの場となるだろう。それは、一者対多数という過酷なコミュニケーション環境に対応するための基礎を養うはずだ。


 

一者対多数のコミュニケーション

今年度から教育系の大学で専任講師をしている友人が地元に戻ったので、久しぶりに会って話をした。とびきり優秀な小学校教師だった彼は、大学という職場でも、新しい環境を楽しみながら、研究に教育にフル回転している。若い友人の活躍というのは、本当に気持ちがいい。

彼が一年目の大学の講義で、模索している方法というのが面白かった。僕が理解した範囲では、それはこんなものだ。

学生に対して、あらかじめ講師の講義での教え方について批評的に見ることを要求しておく。そして講義の最後に、学生にその日の講義の教え方に関するコメントを提出させる。次回の講義の冒頭に、学生たちのコメントを紹介しながら、それを批評し解説する時間をとるのだそうだ。

前回の講義の教え方という形式面についての振り返りの時間は、徐々に長くなって最後には30分くらいになったそうだ。ただし、学生に聞くと、この冒頭の講義が抜群に面白く、人気が高いのだという。

おそらく、こんな講義をしている大学教師は彼くらいだろう。このオリジナルの方法をおこなうためには前提がある。まず、教え方について、講師に様々な手法と技術の蓄積があり、それについて開かれた議論ができる姿勢と準備があることだ。と同時に、本来の内容の講義を、毎回圧縮した時間で教える技術がないといけない。これを普通の大学教師に求めるのは酷だろう。

教育が厳しいと言われる地域の学校と大学の付属校での研究主任の経験をもち、研究授業の経験が豊富な彼ならではの手法といえるかもしれない。しかし、教育を教えるということで、とても大切な何かをつかんだ方法という気がする。学生もそれを察知しているから、人気が高いのだろう。

今日の話の冒頭、教育学とはなんでしょうね、という話題になった。彼によると、他の分野からの借り物が多く、なんでもありであいまいなところがあるという。ただし、それぞれの学問には固有の対象があるはずだ。教育学の固有の対象とはなんだろうか、という話になった。

彼の講義が面白いのは、それが魅力的な方法であるにもかかわらず、教育学以外の分野では、絶対に採用されることはないだろうと思えるところだ。ということは、それが教育学の固有の対象に触れている可能性が高いといえるだろう。

僕の独断では、それは一者(教師)対多数(子どもたち)という、特別なコミュニケーションのあり方だと思う。

 

こんな夢をみた(関西家族旅行)

家族がどこかに連れていけというので、新幹線で大阪に行くことにする。途中で倉敷にいる息子にも会えるかもしれない。大阪駅に着くと、近くに球場があるので、今から今日の試合のチケットが買えるかと聞くと、切符切りの男が、外野席なら買えないことはおまへん、という。今野球人気は盛り返してると得意げにいうが、球場なのに内外野とも桟敷席の狭い芝居小屋みたいだ。

チケットが取れたことに満足して、これから新幹線で戻って、車でまた来るつもりになったが、夢の中でもさすがにその無理に気づく。

試合まで、京都見物をしよう。ということで、突然、京都のはずれみたいなところに家族でいる。古道具屋のような店で、子どもとはいったん別れるが、土地鑑のない子どもには単独行動は無理のようで、携帯で連絡をとって戻ってくる。僕は、古道具屋で古い花札を手にとってみるが、買わない。

京都の中心地に向かって、家族で歩く。細い道はなだらかに下っていて、道の片側に赤く塗られた五重塔らが次々に現れるが、少し芝居の書き割めいているし、よく見たくとも坂道で足をとめることができない。

祇園とかのにぎやかな街で食事でもして、そのあと球場に行けば、家族も満足するだろう、などと考えているうちに目が覚めた。

 

いとうせいこうの沈黙

夕方、テレビを見ていると、教育テレビの子ども番組でいつものように、いとうせいこうが派手な衣装で出演している。まだやってるのか。チャンネルを変えると、そこにもいとうせいこうの大写しの顔が現れる。こっちはちょっと真剣な表情。

ローカルニュース番組で、地元を訪れた作家いとうせいこうへのインタビューを放送していたのだ。被災地支援では、被災者のことを忘れていないというメッセージを送り続けることが大切だという。なるほどまじめな活動もしている人だったな。

インタビューは続き、今の世の中について、SNSでみんながすぐに勝ち馬にのろうとするようになったとか、損得抜きで他者のために動くということがなくなったとか、そのフランクな語り口からは、なるほどとうなずける言葉が続く。

アナウンサーが、それでは、我々はどうしたらいいんでしょうね、と聞くと、いとうせいこうは、ちょっと苦しそうに顔しかめて考えこんでしまった。しばらく黙ってから、難しいけど、傾聴ということでしょうね。みんな発信ばかりするようになってしまったけれども、お互いに聞きあうという世の中になれば。

沈黙も「演出」と取れないこともない。すべて型どおりの正論じゃないか、と突っ込むこともできるだろう。愚にもつかない「発信」を続けている僕には、耳の痛い言葉でもある。でも、インタビューの態度や雰囲気も含めて、素直に共感できる言葉と話しぶりだった。裏番組で、子ども相手に一生懸命にキャラを演じているということもコミで、一気に彼に好感をもってしまった。

いとうせいこうは、同じ年に同じ大学の同じ学部を卒業している。マンモス大学だから、面識なんてないし、それだけで親近感をもったりはしない。小説家や音楽家やタレントとしてマルチに活動し、学生時代の僕のあこがれだった柄谷行人浅田彰とも交流をもつような姿に、むしろ嫉妬と反発を感じてきたような気がする。

あの同じキャンパスの風景。あの同じ時代から出発したのに、ずいぶん違う場所を生きているな、とねたみともあきらめともつかない気分で、遠くから彼の活躍をながめてきた。彼の本を買ったりすることもなかった。

いとうせいこうの小説を読んでみたい。はじめてそんな気持ちになる。それでネットで経歴を見ると、「通信空手の有段者」なんてネタの記載まであった。やれやれ。「中国拳法を通信教育で習った」というのが僕の鉄板ネタなのだが(その時の会員証を大切に持っている)、こんなことまでかぶっているのか。同世代だとつくづく思う。

 

喫茶店「ぽけっと」を探す

黄金市場に寄ったときに、近所にあった喫茶店のことを思い出した。

バーのようなカウンターがあって、夜まで営業していたから、会社の帰りに寄っていた記憶がある。NTTに勤めるタシロさんという人が常連で、いつもカウンターの正面に陣取っていた。「ぽけっと」という店名で、タレントの高見千佳に似た愛らしい笑顔の奥さんが店をやっていた。

僕はたいていカウンターの隅で本を読んでいたけれども、生活上のことなども、あれこれ相談にのってもらったりもした。会社をやめて東京に戻ったあとにも、一度近況報告の電話をした記憶がある。三年後にこの土地に戻ってから店に行った記憶はないから、その頃には閉店していたのだろう。別の場所に移っていて連絡がつくなら、ぜひ挨拶してみたいとずっと思っていた。

その店が面していた大通りの前後は、今ではビルや駐車場になっている。ただし道の向かいには個人商店が何軒か並んでいる。思い切って古びた仕立て屋に入って声をかけるが、開店休業状態なのか反応がない。となりの薬草を扱う店は、新しいビルの一階にあるけれども、店主が高齢の方なので声をかけてみた。

聞くと、ビルを建てる前からここで営業していた老舗らしい。はりきって向かいにあった喫茶店のことを尋ねる。知っているという。女の人が二人でやっていて、というので変だとは思ったが、そういう時期もあったのだろうと話を聞くと、その店があったのは60年も前のことだそうだ。

僕が「ぽけっと」に通っていたのは30年くらい前のことだから、明らかに時代が違う。僕より大分年配の店主にとっては、60年前が青春の時期で、きっとその店に懐かしい思い出があったのだろう。30年前には壮年で店を切り盛りしていただろうから、喫茶店で時間をつぶすようなことはなかったのかもしれない。僕はお礼をいって店を出た。

 

 

なんもかんもたいへん、いらっしゃい

若いころ住んでいたアパートの近くに、黄金(こがね)市場という商店街がある。アーケードのかかったメインの商店街の周囲にお店が集まり、隣接する古い木造の建物の中の路地にも商店が連なっている。

この路地の方の一角。シャッターを半分だけ開けて、間口の地べたに野菜の入ったザルを並べて、自分も座り込んだおじいさんが、さかんに早口の口上を繰り返している。

「なんもかんもたいへん、いらっしゃい。なんもかんもやりっぱなし、いらっしゃい。イオンは高いよ。びっくりするよ。今見てきたけどな。なんもかんもたいへん、いらっしゃい」

リズミカルで小気味よく繰り返される「なんもかんもたいへん⤴いらっしゃい⤵」という言葉の合間に、近所の大手スーパーへの軽いディスり(揶揄)を混ぜている。路地の目の前の店も野菜を扱っているし、商店街にも八百屋は何軒もあって、本当のライバルはそちらなのだろうが、共通の敵イオンを話題にする方が支障がないのだろう。

不思議なことに、この地べたのわずかな野菜が、店主の口上の効果もあってか、よく売れるのだ。シャッターの下からみえる店舗内は、ゴミ屋敷のように段ボールが積み重なっている。シャッターにはうっすら屋号が読み取れるので、おじいさんにこれがお店の名前ですかと尋ねると、オレに屋号はないよと答える。おそらく閉店したお店の店先を借りて商売しているのだろう。地べたで商売しているのは、正式に借りているわけではないためかもしれない。

今は、この手の古い商店街や木造市場は元気がなくなっている。しかし、久しぶりに訪れた黄金市場は、たしかに路地には空き店舗が目立つし、商店街にも多少シャッターの閉まった店があるが、人通りは多く、商売に活気がある。猥雑でちょっといかがわしい雰囲気も健在だ。

僕は東京郊外の住宅街出身なので、こうした商店街や市場を身近に育ったわけではないが、記憶をたどると、国立デパート(という名前の商店街)とか、富士見台団地のパールセンターとか、市場に似た雰囲気の場所はあったので、どこか懐かしい。

この街が実家を出てはじめての一人暮らしだった。母が何度か暮らしの面倒を見に来てくれたのだが、黄金市場で買い物をしたと聞いた記憶がある。母もこの口上を聞いたのだろうか。

 

 

 

春の鳥

朝風呂に入っていたら、ホーホケキョというさえずりが小さく聞こえる。今年は暖冬だから、真冬なのにビックリするくらい温かい日にウグイスのさえずりを聞いてはいたが、春先に聞くのは初めてである。それも自宅で、というのはうれしい。

トンビのピーヒョロロという声を昔は家でもよく聞いたのに、と妻がいう。住宅街の中の空き地も少なくなって、トンビの訪れも少なくはなったが、それでも玄関先から高い空を悠然と舞うトンビの姿を見かけることはある。

カササギが好きで、佐賀や筑後に行くときに見るのを楽しみにしていたけれども、生息域を急速に広げて、今では我が家の庭にも顔を見せるようになった。気品ある姿は、鳥の中でも別格だ。

裏口を開けた時に、巨大なアオダイショウが目の前にいて呆然としたのも、そんなに昔のことではない。自治会の回覧で「タヌキがでますから、注意してください」という知らせが回ってきて、笑ったことがあった。イノシシじゃあるまいし。都会から越してきた人が多いから、野生動物に慣れていないのだ。

今日は、仕事の訪問先で、たくさんのイワツバメを飛ぶのを見た。ツバメがこの街にやってくるのも、もう間もなくだろう。今年はあっけないほど冬の厳しさがなかったから、春を迎える喜びがやや不足気味ではあるけれども。

 

 

こんな夢をみた(締め切り)

テストの直前なのになんの準備もしていない、さあどうしよう、という夢はずいぶんみてきた。さすがに最近は頻度はだいぶへったが、社会人になってからも見続けた。実際の生活では、仕事が間に合わなかったり、成果がでなかったような失敗は絶えずで、仕事に苦しめられてきたにも関わらず、そちらの方の夢はめったに見ない気がする。あまり現実感がありすぎるためだろうか。

昨晩は、めずらしく仕事に追われる夢をみた。締め切りは数日後。書類の処理は何件もたまっていて、それぞれに複雑だ。ようやく一件一件を取り出して、机上に並べ、不足事項の手配などを考える。なんでもっとはやく手をつけなかったのだろう。時間さえあればどうにかできたはずだと後悔する。

それなのに、なぜかがらんとした深夜のモールのようなところを歩いている。パチンコ屋の店員だろうか、通行人を引き止めて、明日は〇〇タイムがありますよ、と店の宣伝をしている。その時間になって、お客が〇〇と声をそろえて叫んでいる間に、玉がじゃらじゃらと出るのだそうだ。パチンコをしない僕は、そんなサービスもあるのかと興味をもったが、いけない、いけない。こんなところにいる場合じゃない、仕事をしなくては。

ついに締め切りの日だ。しかしなぜかグラウンドでサッカーをしている。運動神経のない僕は、いくらボールをけっても思うように前に飛んでくれない。サッカーをしながら、どうせこれは夢なのだから、締め切りの仕事も僕がやらなくてもよくなるのだ、と考え始めている。一方、そんな無責任なことでいいのか、とも。あるいは、夢だからといってそんなにうまく仕事を免れるのだろうかと疑ったりもしている。

そうして目を覚ました。あの締め切りとは無関係な世界に戻って、正直ほっとする。