大井川通信

大井川あたりの事ども

ヒメハルゼミの研究(その3)

今日は快晴に近いから、夕方でも明るい。午後6時半近くに和歌神社へ向かうため、秀円寺裏の林の道を下りていると、遠くからヒメハルゼミの合唱が聞こえる。しかし近づくと、鳴き止んでいた。再び鳴き始めたのは6時50分。曇りの夕方より本格的な鳴き始めは遅いようだ。ヒメハルゼミは、鳴き始めがかっこいい。静寂から、森全体に声が響き渡るまで、一気に加速する。

和歌神社の境内は、木の塀で丸く囲まれており、社殿の裏は、すり鉢状の斜面になっている。そこにぐるりと広葉樹の大木が取り囲んで、参拝者を見下ろしているのだ。そこから分厚い声の大波がおりてくる。僕はようやく理解する。ここはヒメハルゼミが主役のコロシアム(円形劇場)なのだ。

僕は、自分の住む住宅街からセミの声が聞きたくなった。竹藪の脇に残されたケモノミチを上って、住宅街に戻る。和歌神社の裏山の脇に突き出した区画があって、そこでは金網ごしに森を見ることができる。もちろん、ヒメハルゼミの声も響いている。

すると、目の前の低い木の細い横枝に、小さなセミらしき姿がある。昨年、姿がよく似たハルゼミが松の横枝にはりついているのを見つけた経験値が活きたのだ。知らなかったら、大型のアブくらいにしか思えないだろう。胴体が長いからオスだろう。ほんの数メートル先で鳴く姿を観察できたのは幸いだった。

遠くから波のように仲間の声が迫ってくる。その声に包まれると、たまらず彼も声をあげる。ジリジリから始まり、ミーン・ジリジリというフレーズを7,8回から10数回繰り返す。表現しにくいが、最後にはミーンというフレイズがジリジリの中に埋没するみたいになって、あとはジリジリだけが続いて、鳴き止む。一匹が一回に鳴く時間はそれほど長くない。声量も飛びぬけて大きいわけではない。続けて鳴く場合もあれば、休んでしまう場合もある。

今日わかったことは、ヒメハルゼミの鳴き声の秘密は、相当多い数の個体の合唱にある、ということだ。小さなスピーカーが、あちこちの枝に分散して設置されている感じだろう。それがサラウンドの音響のように、うねるような分厚い深みのある音を増幅させるのだ。

僕がセミの声を聞いていると、すぐ前の家の親子が自動車で帰ってくる。自治会の役員で顔なじみのお母さんだったので、気軽に「珍しいセミがいますよ」を声をかける。毎年この時期に鳴くセミのことには気づいていたらしい。

僕は家に戻りながら、僕らの住宅街のことを、ヒメハルゼミの鳴く丘とでも命名したい気持ちにかられていた。

 

 

 

 

 

 

「なんもかんもたいへん」のおじさんとしんみり話す

黄金市場を二カ月ぶりに訪ねる。日曜日のためか、ほとんどの店がシャッターを下ろしていて、平日の活気がない。後で聞くと、大通りをはさんだ古くからあるスーパーが年度末で閉店してしまったのも影響が大きいという。何割もお客さんが減ったらしい。何でも品ぞろえのあるスーパーとセットで市場は利用されていたのだ。

あんたを待っていたのだと、おじさんがいう。地元の醤油屋のドレッシングの手土産を渡して、客足がないので、僕も地べたにしゃがんで話をきく。

おじさんの話はこうだ。一年ばかり「店」を手伝ってくれるお客さんがいた。60歳過ぎくらいの「ねえさん」だという。亡くなった父親にできなかった親孝行のつもりだといって、ほとんど毎日、自転車でやってきて、夕方から夜まで無償で店番の手伝いをしてくれたそうだ。お菓子や納豆も仕入れて店に並べてくれたが、それもよく売れたという。その人が二カ月前に、明日も来るね、と言い残したまま、ふっつりと来なくなった。

はじめは少し体調が悪いのだろうくらいに思っていたが、だんだん心配になる。わずかだが借りたままのお金もある。けがや病気かもしれない。名前は名乗らなかったが、自宅の近くの様子や取っている新聞、通院先の病院など世間話で出ていた。それらを手掛かりに、なんとか探しているところなのだという。個人情報に厳しい時代でもあり、なかなか難しそうだ。しかし80代半ばになって、かけてもらった人情の味は格別だったにちがいない。ときどき涙ぐみながら話してくれる。

競輪に夢中になって、家業の花屋の仕入れにも困った話。八年前に長男を病気で亡くした話。娘さんが花屋を継いで親孝行をしてくれている話。市場で閉店した知り合いから店を借りられるかもしれない話。そうしたら、路地の道端にザルを並べずに、店を構えて営業ができるようになる。僕は、「ねえさん」の消息がわかること、店の話がうまくいくことを祈りながら、しびれた足を伸ばして、おじさんと別れた。

昭和の市場の雰囲気や、おじさんの「なんもかんも大変」という口上を楽しむことからかけ離れて、だいぶしんみりしてしまったが、これも名もなき市井の人間同志の交流という僕の方法だと考えて、ひとり納得する。

市場の入り口の派手な店構えの東洋軒というラーメン屋があるので入って見る。あとから調べると、偶然この土地の名店だったらしい。なるほどまろやかな豚骨スープと、少し太めの柔らかい麺で、この地域の定番ラーメンといった感じだ。さらに、黄金市場周辺で俳優の草刈正雄が少年期を過ごし、東洋軒でもラーメンをよく食べていたという情報をネットで見つけて、ぐっと気持ちが高まる。

無名人を気取ってはいるものの、やっぱり有名人には弱いのだ。

 

ヒメハルゼミの研究(その2)

仕事が終わってから、近隣では最大の鎮守の森がある宗像大社へ。午後6時を過ぎて人気のない境内を歩く。うっそうとした大木の並ぶ小道を歩いて、小山の上の祭祀場に向かう。奥の森からヒメハルゼミの鳴く声が小さく聞こえてくるが、アクセス可能な場所にはセミはいない。

釣川を渡って鎮国寺に移動。午後6時半。小山の中腹にあり、深い森に囲まれている寺院だ。案の定、境内脇の林でヒメハルゼミが鳴いているが、それも二カ所ほどで、数も多くはない。しかし、近くの木で一匹が鳴くのを聞くことができたので、単体がどう鳴くかを知ることができた。前回の推測を修正しないといけない。

「ミーン(ギーオ)ツクツク(ジリジリ、カラカラ)」を繰り返し鳴いていたのだ。リズムとしては、ツクツクボウシが繰り返す、オーシン・ツクツクのフレーズとよく似ている。前半を大声でゆっくり叫び、後半は小声で早口に付け足される。

ただしツクツクボウシなら、鳴き始めと鳴き終わりにメリハリがあって、フレーズの繰り返しもスピードアップしていくのだが、ヒメハルゼミの方には、はっきりした約束事はないような感じがする。しかもツクツクボウシなら、いくら集まっても声は混じらないだろう。どうしてあんな分厚い波のような合唱となるのかは謎だ。

このあと、近隣の旧村社である鎮守の森を三カ所、足早に訪ねたが、どこでもヒメハルゼミの声を聞くことはできなかった。ヒグラシやアブラゼミが単独で鳴いていたぐらいである。途中、和歌神社に7時前に寄ると、昨日と同様、ヒメハルゼミ蝉しぐれだ。他の神社よりも周辺の都市化が進み、道路わきの平地にあるというのに。

ただ和歌神社の森は狭いけれども、大木が寄り添うように生えていて、足を踏み入れられない傾斜地にある。やはり特別な「聖地」なのだと知って、満足する。

 

ヒメハルゼミの研究

午後5時過ぎに家を出て、歩いて5分ばかりの和歌神社にむかう。今日は曇っているので、すでに夕方らしい時刻だが、神社の境内にセミの声はない。いったん家に戻ろうとすると、突然裏の林からセミの合唱が始まる。5時30分頃だ。しばらく聞いてから家に戻り、帰ってくると鳴き声はやんでいる。すると6時頃に再び鳴きだし、5分くらいでまたぴたりと止んだ。

ヒメハルゼミのすさまじい蝉しぐれを、ぜひ林の中で聞いてみたい。斜面をよじ登って林に入る。わずかに神社裏の斜面が住宅街の開発から免れているが、斜面の上部は針葉樹の植林になっているので、広葉樹の大木は境内に30本ばかりあるくらいだろう。この狭い林でヒメハルゼミが生き残っているのだ。いくら待っても鳴きはじめず、やぶ蚊に責められて、仕方なしに斜面を下りる。

すると6時30分頃になって、ようやく蝉しぐれが始まる。今回も5分程度で鳴き止むのかと録音を始めるが、鳴き声は大きくなったり小さくなったりしながらもなかなか途切れない。結果的に、6時50分頃と7時10分頃に、それぞれ何分間かの完全な中断をはさんだだけで最後まで鳴き続けることになる。

この地域では7時30分頃が日没だから、境内の外では街灯や家の明かりが目立つようになるし、空にはコウモリが飛び交うようになる。暗い林の中にはすっかり夜の闇が忍び込んでいる。それでも、ヒメハルゼミは元気に鳴き続け、鳴き止んだのは7時45分頃だった。

かれこれ1時間以上、ヒメハルゼミを聞き続けたのだが、かなり複雑で華やかな感じもする鳴き声だ。それもグループでお互いに呼応して演奏しているのも楽団みたいで面白い。

群れの鳴き始めや鳴き終わりには、単独の鳴き声を聞き分けることができる。するとかなりはっきり「ギーオ、ギーオ」(ミーン、ミーンと聞けないこともない)というフレーズを繰り返していることがわかる。古いゼンマイ仕掛けのオモチャが出すような音の感じは、たしかにハルゼミに似ている。一方、集団で鳴きだすと、このフレーズが埋もれるくらい、「ジリジリジリ」(カラカラカラと聞けないこともない)という単調な鳴き声が林にあふれるようになる。(愛用の小学館昆虫図鑑で「ミンミンカラカラ」と鳴き声を表記してるのは、こんな事情があるためだろう)

「ギーオ、ギーオ」が複合して「ジリジリジリ」の爆音となるとは思えない。おそらく二種類の鳴き方があるのだが、ツクツクホウシのような秩序だった鳴き順があるのではなく、ジリジリジリをベースに、思い余ってギーオギーオと絶叫するというパターンではないかと思う。だからジリジリジリと始まる爆音の中で、初めからギーオギーオと叫ぶ連中もいるわけだし、彼らも後からジリジリに加わるから、いっそう分厚い蝉しぐれとなるのだろう。このうねるように増幅する音量は、近くで聞くと、何か身の危険を感じるほどの迫力である。この集団演奏を、ごく小さな鎮守の森で代々生き延びるセミたちが行っていると思うと、心を揺さぶられる。

そろそろクマゼミが地中から出て来る時期になる。いつまでヒメハルゼミの絶叫が聞けるのだろう。また、近場の神社ではどうなのか。興味は尽きない。

 

ヒメハルゼミの合唱

数年前、職場近くの松林で、ハルゼミの存在に気づいて、驚いた。セミは、もっとも身近な昆虫であり、今さら新しい発見などないと思い込んでいたからだ。もっとも、ハルゼミは松林の中でなら、それほど珍しいセミではないのかもしれない。5月に奈良に行ったとき、興福寺裏の松林からも聞くことができたから。

ハルゼミを観察して覚えた言葉がある。一つは日照性。日が当たりだすと、鳴きはじめるのだ。もう一つは合唱性。一匹が鳴きはじめると、それに合わせて他の個体も鳴きはじめる。セミは、環境の変化や他の個体に影響を受けずに、機械的にガンガン鳴き続けるようなイメージがあったので、このハルゼミの特徴は面白くて、頭に残った。

今回、和歌神社裏の森から聞こえてきたセミの声で気づいたのは、合唱性があるということだ。かなり大きな声で鳴いているのだが、しばらくすると潮が引くように声が小さくなる。しかしその後には、また鳴き声が盛り返す。ふだん聞くセミには、こんなことはなかった。

鳴き声も単純なジージーではなく、ミンミンゼミほどはっきりではないが、繰り返すようなフレーズも含まれている。だから、アブラゼミクマゼミ(さらにはニイニイゼミ)が混じった声だろうと思った。しかし、クマゼミは午前中にしかなかないはずだし、この地域で鳴きだすのは、梅雨明け後の7月中旬以降だ。アブラゼミもまだ他所では聞いていない。

こうした様々な違和感を抱きながら、自分の知らない新しい種類のセミだとは思わなかったのは、あまりにも大きな声で、多くの個体が堂々と鳴き続けていたからだ。その歌いぶりは夏の盛りのクマゼミたちと一緒であり、珍種らしいか弱さや儚さが感じられなかったのだ。

しかし、念のため図鑑で調べると、生息条件にあう種類は、限られている。ネットの音声と詳しい解説と照らし合わせて、ヒメハルゼミでまちがいないと確信した。

・西日本の照葉樹林で生息し、集団で合唱する。時期は6月下旬からで、短期集中で発生。ヒグラシと同所で生息することも。

・鳴き声はアブラムシに強弱をつけたようで「ギーオ、ギーオ」「ウィーン、ウィーン」など。特に夕方に連続して鳴く。

・生息分布域が、他のセミのように面でなく点である貴重なセミである。

照葉樹林は、スギ、ヒノキなどの針葉樹の植林によってほとんどが失われており、社寺林(いわゆる鎮守の森)として、わずかに残されている。ヒメハルゼミは飛翔能力が低く、生息域の拡大を図らないため、点在する社寺林でかろうじて生息しているのだろう。

和歌神社のヒメハルゼミは、まったく貴重な存在なのだ。僕自身も神社がビオトープの機能を持っていることに気づいてはいたが、特徴ある生態と鳴き声で、それを多くの人にアピールできる素材になるだろう。何より、地元の神社で出会えたことは、大井川歩きの有効性を立証してくれるようでうれしい。

 

僕は自分の方法をもっと信じなければいけない

妻が20年ばかり通っている彫金教室を、猫を連れて訪ねる。マンションの一室の工房を先生が改装したので、そのお披露目の会があるのだ。猫との外出は初めてなので、エサやらトイレの砂やらを車に持ち込む。こんなふうにあれこれ気を使うのは、子どもが赤ちゃんの時以来だねと、夫婦で笑う。実際、育てている感覚は、子どもとまったく同じなのだ。

会は、お金持ちのご婦人方の集まりという雰囲気で、僕たち夫婦は少し浮いていたような気もするのだが、まあよしとしよう。途中で夕食を食べて戻るが、まだ明るい。背伸びして気をはったせいか元気がある。一人で家を出て、大井川歩きをすることにする。

まずは、住宅街から。今は、同じく新しい地名になっているけれども、もとの里山は南向きの斜面と北向きの斜面とでは、持ち主の村が違うから地名が違っている。その古い地名を意識して土地を踏みしめる。空き地だった区画にも、いつのまにか新しい家が建っている。駐車スペースには、外車を含む複数の車が並ぶ。やっかみではなく、何でそんな余裕があるのだろうと不思議になる。こんな田舎の郊外にも、経済の恩恵は毛細血管みたいなものを通じて浸透している。それが不思議だ。

神社の裏山を抜けて、旧村の集落に降りるコースを選ぶ。この斜面の薄暗い林には、以前ヒメボタルが生息しているのを見つけたが、今年は確認せずにシーズンが過ぎてしまった。大井川歩きをだいぶさぼっていたのだ。和歌神社の神様にご無沙汰を詫びていると、裏の森から、ジイジイと大きなセミの声が聞こえてくる。クマゼミアブラゼミなのだろうが、時期が早いし、時刻も遅すぎる。何より節まわしに違和感がある。念のため録音をする。合間に交じるヒグラシの良くとおる声が、情感たっぷりで美しい。真上のまだ青が残った空に、銀色の旅客機の小さな針のような影が動いている。

大井川にかかる小さな本村橋を渡り、旧安部重郎邸の原田さんのお店へ。不在。ニワトリ小屋をのぞくと、汚れた毛布みたいな大きなニワトリが二羽、片隅で動かない。空腹なのだろうか。

薄暗くなりかけた道を歩いていると、遠くから、選挙宣伝車からの放送が流れてくる。近所のコミュニティセンターで候補者の演説会があるので、その呼びかけだ。少し考えて、立ち寄ってみることにする。選挙にも政治にも関心は薄いが、「自分が歩き回ることのできる範囲の土地に生起する事物に(だけ)責任をもってフィールドワークする」という、大井川歩きの精神には、それがかなっていると思えたから。

小さな政党の候補のためか、会議室に二十名ばかり。意外と若い参加者もいて、熱気も押し付けがましさもなく、拍子抜けする。出口で、地元の有名アナウンサーだった国会議員と握手だけして帰る。

そうして今、夜中の自室で、昆虫図鑑を開きながら、ネットであれこれと調べものをしている。大井川歩きは散歩ではない。見聞きしたことを、調べ、考え、つなげるプロセスがなければ、小さな身近なフィールドを味わい尽くすことなどできない。今回は、久しぶりの予想外の発見で、全身がぞくぞくするような喜びに浸っている。僕は自分の方法をもっと信じなければいけないのだ。

 (翌日に続く)

『月に吠える』 萩原朔太郎 1917

今月から始まった詩歌を読む月例の読書会に参加する。この会が定着すれば、毎月の小説を読む会、隔月の評論を読む会、月例の個人勉強会とあわせて、生活の中で無理なく読んだり考えたりすることのペースメーカーになってくれるだろう。

初回は萩原朔太郎(1886-1942)の詩集『月に吠える』だった。こうして生年と没年を書き取ると、朔太郎が50代半ば過ぎの、今の自分の年齢くらいに亡くなっているのがわかって、感慨深い。

昨年からの癖で、独自の〇△式採点法で読んでみると、55篇中、△(面白い要素がある作品)は13篇、〇(全体として面白い作品)は12篇で計25篇となり、4割5分の高打率となった。有名な詩人でも、2割以下の低打率の詩集が普通にあり、それだと読むのが苦痛になる。

僕が朔太郎に出会ったのは高校生の頃だから、1970年代末くらいだ。すでに朔太郎は戦前の旧時代の詩人であって、新しい時代の表現は戦後詩がになっていた。それから40年経って、当時の戦後詩の多くが古びてしまった中で、朔太郎だけが、まだこれだけリアルに読めるということは驚異だ。

その理由の一つは、朔太郎が詩の方法について、徹底して自覚的であって、突き詰めた論理性をもっていたためではないか、と気づく。詩集の序文には、だいたいこんなことが書いてある。

我々は、一人一人、生まれてから死ぬまで永久に「孤独」である。しかし、他の人間や植物との間に、愛や道徳という特別な関係を結ぶことができる。それを可能にするのが、「感情」という特異にして普遍的なものの存在であり、それを表現できるのが「言葉以上の言葉」としての詩である。

「孤独」「感情」「言葉以上の言葉」、この三つが朔太郎詩の等根源的な要素といえるだろう。

 

 

『三陸海岸大津波』 吉村昭 1970

この書物を読むと、まるで2011年の東日本大震災の時の大津波の記録を読んでいるような気になる。あの時には、福島原発が「想定外」の被害を受けたということもあって、千年に一度くらいの稀な津波被害に、運悪く巡り会ったかのような印象を受けていた。事情にうとい人なら、僕と同じように思っていたのではないか。しかし実際には、百年に複数回起きている災害だったのだ。

著者は、明治29年(1896年)の津波と、昭和8年津波(1933年)の津波について、当時の記録や聞き取りをもとに、たんたんとその恐るべき被害を記録している。著者がこの本を調査・執筆したのは、前者の津波からは70年余り、後者の津波からは40年足らずが経過した頃である。明治の津波の生存者も存命しており、昭和8年津波を子どもの時に体験した人は、まだ40代の働き盛りだ。昭和35年(1960年)には、地球の裏側での地震の影響によるチリ地震津波が襲来して、少なくない被害をもたらしている。

著者が津波の記録をまとめようと思ったきっかけは、ある被災者から聞いた「二階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていた」という話の異様さである。これは体験した者以外には想像が困難であるようなイメージだ。文学者ならではの感性でこのイメージに感応した著者は、聞き取りや文献の調査にのめり込んでいく。こうしてまとめられた本書は、津波の記憶を保存する、創作の要素の無いルポルタージュとなっている。

二つの大津波で多くの死者を出した田老町では、海面から高さ10.65メートルの巨大防潮堤を作って津波に備えた。ただ著者は、二つの大津波で10メートル以上の波高を記録した場所が多いことから、防潮堤を津波が越すことを危惧している。実際に2011年の津波は防潮堤を破壊し、田老地区(旧田老町)で新たな犠牲者を生んでしまった。無防備だったわけでも、教訓を活かさなかったわけでもないのだ。暗然たる思いがする。

 

ビワとカマキリ

以前に妻が、知り合いからビワの葉のエキスをもらってきて、それが市販の塗り薬よりもよく効くと話していた。それで自分で作りたいからビワの葉を見つけてほしいというので探すと、意外と身近なところにビワがあることに気づいた。近所のため池の縁にも、雑木にまぎれて大きなビワの木があって、手を伸ばせば届きそうだ。しかし、そんなところのビワの葉は気持ちが悪いと妻はいう。

それで、庭を少し手直ししたときに、ビワを植えようと思ったのだが、迷信深い妻は、今度は庭にビワは縁起が悪いといいだす。ビワには薬効があるから、ビワの木には、病人が列をつくる。そんなエピソードから中国で、ビワの木は縁起が悪いとも言われたらしい。

しかし、さらによく見ると、道をはさんで正面の家も、すぐわきの家も庭にビワを植えている。だれもそんな迷信など気にしてはいないようだ。ホームセンターで、ちょうど手ごろなビワの苗木を手に入れたので、日当たりのいい敷地の南隅に植えることにした。成長したら、隣家からの目隠しにもちょうどよいだろう。

このビワの苗木に、数週間前から、小さなカマキリの赤ちゃんが陣取っている。苗木のてっぺんには、あたらしく生えてくる葉に囲まれた、すり鉢状の空間がある。そこに体長わずか数ミリのカマキリがとまっているのだ。夜露もたまるだろうし、根気よく待てば極小の獲物も迷い込んできそうな場所だ。小さくともカマキリなので、カマをもたげ、太い胴をぐっとそらせた姿はなかなか精悍なものだ。

ハラビロカマキリの赤ちゃんだろうか。ハラビロカマキリなら、昔、玄関前でスズメバチとの死闘を見たことがある。そんな立派な成虫にまで育つ可能性は、おそらくとても低いだろうけれども、なんとなく心配になって、毎日のぞきに行ってしまう。

子猫を育てるようになってから、けなげに生きる小さな生き物たちのことが、いっそう気になっている。

 

 

『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』 丸山俊一 2018

NHKのプロデューサーによる人気哲学者マルクス・ガブリエル(1980-)の軽めのインタビュー集のようなもの。読書会の課題図書で読んだのだが、問われるままにあらゆることに一言もの申しているためか、話題があちこちに飛び回っていて、いったい何がいいたいのか、僕にはよくわからない本だった。発言の断片にもあまり新鮮味は感じられなくて、みなどこかで聞いたことがあることばかりだから、なおさら頭に入らない。

ただ、なんとか了解できたことがある。ヨーロッパの「天才」哲学者を持ち上げて、あれこれと勝手な事を喋らせて、それを無暗にありがたがるという日本の出版人や放送人のあり方は、昔から日本人が海外思想を輸入する姿勢の伝統にただしく連なっているように思える。その縮小再生産版という感じだが。

もうひとつ。ガブリエル氏が、かなりあからさまに語ってくれているおかげで、ドイツ人にとっての哲学の意味合いを知ることができたのだが、これこそ衝撃的な内容だった。哲学書の字面を読んでいるだけでは、よくわからないことばかりだ。

「ドイツ人にとっては哲学に呼びかけられるような体験がわりと自然なことなんじゃないかと思う・・・空気としてそういうものがあるんだ」

「哲学は合理的な精神分析とも言える。人は皆、哲学的療法を受けたいはずなんだ」

「哲学はルールなしのチェスだ。格闘技みたいなものだよ。ああでも敵を殺すとかじゃなくて、『技』の方かな」

キリスト教徒が聖書を共有しているようにね。ドイツ人はドイツ観念論でつながっているのです。それは傍から見たら本当に奇妙なことですよね」

「ドイツ人にとってヘーゲルの『精神現象学』やカントの『純粋理性批判』は、ギリシャ人にとってのホメロスキリスト教徒にとっての聖書のようなものだと思ってください」

「それで私たちは厳格な論理的構造を持っているのです。なぜなら現実はまったく統一されていないからです。ドイツは概念レベルでのみ統一されているのです」

日本人にとって哲学は、相変わらず、この本が端的にあらわしているように、外国から与えられる、霊験あらたかなお札のようなものだ。この彼我の違いに向き合うことなしに、日本で「哲学する」などという言葉を安易に使うことはできないだろう。そのことだけは、あらためて実感できた本だった。