大井川通信

大井川あたりの事ども

次男の子育て(てんかん発作)

幼稚園年長さんの9月に、はじめてのてんかん発作があった。朝ふとんの中で、口から泡を吹いて、よだれがながれ、身体がだらんとして無反応になる。(妻はよく、目が流れる、といっていたが、黒目がはじに寄ることだろう)

この時は二日ほど入院し、薬を処方されて毎日飲むようになった。相変わらず頭打ちは収まらないし、言葉も上手くはならない。今後てんかんが治るかどうかわからないし、重いてんかん発作は、脳に障害を残すとも聞く。ワタルがどんな風に成長するのか、まるで思い描けずに、親としてつらい時期だったと思う。

それでも何とか乗り切れたのは、療育施設の職員さんや通園児の家族たち、幼稚園や学校の先生、学生ボランティアの支えがあったからだと思う。そして、何よりワタルが、真ん丸の顔とあどけない姿でとてもかわいかったのだ。

結局てんかんの発作は、幼稚園で4回、小学校一年生で1回、二年生で3回、三年生で1回の計9回で終わった。しかし投薬は中学生いっぱいまで続き、脳波の定期検査を卒業して寛解と判断されたのは高校の最後の学年の時だった。

ところで、新たにてんかんの不安を抱える中で、幼稚園を卒園し、地元の小学校の特別支援学級に進学することになる。僕は幼稚園の式には出れられなかったが、療育施設「のぞみ園」の卒園式には出席できた。3年前の入園式には席についていられずに歩き回っていたが、今回は新調のブレザーを着て、立派に園長から卒園証書をもらっていた。

ただし、手厚かった幼稚園と療育施設を卒園して、小学生になることには不安も大きかった。この時の妻のメールのこんな言葉が、さすがに母親は強いと感心させられて記憶に残っている。

「のぞみ園と幼稚園が終わったぞ。次は小学校だ!」

 

次男の子育て(幼稚園)

ワタルの幼稚園は、キリスト教系の園だった。僕が住んでいる住宅街がある丘のはずれの森の中の木造の園舎で、近くにはため池と小さな教会があった。僕もきまぐれで、一度だけ日曜の礼拝に参加したことがある。年配の園長先生が牧師だった。

やはりクリスマスが大きな行事で、園児全員がお芝居をした。ワタルは一年目はマリヤ様のお使いの役になり、セリフがあった。えすさま、えすさま、と聞こえたのは、イエス様という呼びかけだった。ちなみに、二年目は牛の役だった。

妻が送り届けると、補助の先生の膝の上にちょこんと腰かけて、一日中面倒を見てもらっていたようだが、同級生の中にも、ワタルを気にかけてくれる女の子がいた。たしか。オヤマダユウキちゃんという名前だった。

発達が遅れていて、まだ赤ちゃんみたいなところもあるワタルを弟のように思ってくれていたのだろう。妻も、ワタルにミッキーマウスの着ぐるみなどを着せて楽しんでいた。幼稚園での写真をみると、いつもユウキちゃんがワタルの横に付き添うように並んで写っている。

それだけでなく、幼稚園の最後にはラブレターをくれて、そこにはプロポーズの言葉も書かれていたと思う。

言葉がうまく操れなかったワタルに、小学校入学前の記憶はない。それでも両親の話から、幼稚園時代に自分にもモテキがあったことを知り、得意に思っているふしがある。ユウキちゃんのご両親から、ユウキちゃんにも重い持病があるという話を聞いた。それでワタルをかわいがっていてくれたのかもしれない。

幼稚園卒業後、ユウキちゃんには会う機会はない。ただ今でも彼女の家の近くを通りかかる時、彼女が元気でいること、そしてワタルのことを覚えていてくれることを密かに願うようにしている。

 

文芸評論の時代

少し前に、文芸評論について、こんな記事を書いた。

かつて日本に文芸評論の時代というべきものがあって、彼らが最前線の思想家として、ふるまっていたこと。その理由は、日本人は抽象語による思考が苦手で、現実や生活から遊離したものとなってしまうので、小説という具体的なエピソードに基づいて思考する文芸評論家が、日本社会の全体を深く考える上で優位に立っていたから、というものだった。

文芸評論家が輝かしい職業だった時代は、おそらく1970年代までだろう。その威光が残っていたのは、せいぜい冷戦の終結バブル崩壊の90年前後くらいまでだった気がする。これは文芸評論だけでなく、他の分野の評論家たちにも言えることかもしれない。

テレビのバラエティで、いろんな分野の評論家を集め、芸能人相手にアドバイスをさせて楽しむという番組があるが、今や評論家は、一風変わったキャラや話題を売りにするネタ元にすぎなくなった。

評論家の知的な権威が崩れた経緯には、おそらく様々な背景があるだろう。あらゆる知的なヒエラルキーや秩序があいまいになるポストモダンという時代が訪れたこと。大衆の時代となり、個々人が消費の主体としての力を蓄え、自ら発信できるような情報環境が整備されたこと。

ともあれ、僕は、まだ文芸評論が知的な権威のある時代に本を読みはじめたことになる。小説の文庫本には名だたる文芸評論家や文学研究者が解説を書いていて、それを読むのが好きだったから、自然と解説の充実した旺文社文庫などを好むようになった。やがて、岡庭昇や柄谷行人の著作を通じて、小説を様々な角度で思想的に読むことの可能性を知ることになる。

僕の中の文芸評論のブームはすぐに終わってしまい、むしろ思想そのものを評論する本をよむようになった。当時のニューアカデミズムのブームに、僕も追い付いたのだ。

こんなことを振り返ったのは、ここ二年ばかり、ある読書会に参加して、若い世代の人たちと小説を読みあうようになったからだ。自らの好悪や感性、経験をぶつけて読む姿は好ましい。僕も、参加者と切磋琢磨するように、久しぶりに小説と向き合うようになった。

その中で、近ごろようやく彼我の違いに気づくようになった。初めは単なる世代差かと思っていたが、そうではなく、いわば「文芸評論」の経験の有無なのだ。自分と作品との間に、適切な解読装置をさしはさんで読む、という手法は、おそらく文芸評論を読むことを通じてしか身につかないものなのだ。近頃は、文庫本解説も芸能人のエッセイになったりしている。

この話を月例の勉強会で吉田さんに話すと、おおいに共感してくれた。吉田さんは、大量の映画評論を読み、そのコレクションを持っている。もはや映画の紹介文以外の映画評論など読まなくなった若い世代とのギャップを痛感しているようだった。

この評論の時代の経験は、今ではあまり顧みられることはないけれども、僕たちの世代のアドバンテージとして活かすことができるかもしれない、というのが勉強会当夜の結論となった。

 

東京の災害

東京を出て、今の地方都市での生活がすいぶん長くなった。東京といっても多摩地区だし、都心に通ったのは大学の4年間しかない。だから、たまに東京に帰省すると、今の地元での時間の流れやリズムとの違いが、どうしようもなくはっきりする。

9日は、台風15号が首都圏を直撃した。東よりの千葉県を通ったためと、未明の襲来だったために、宿泊した東京郊外では目にみえる被害は感じられなかった。午前8時までがJRの計画運休で、中央線はその前後から動き出した。幸い、午後4時の飛行機を取っていたから、お昼前に出発すれば、どこか一カ所くらい立ち寄って時間をつぶしながら、余裕で羽田空港に着けると考えていた。

地方では、都心部でもJRは、一時間に数本しかなかったりする。自家用車やバスなど代替の手段はふつうにあるのだ。

しかし、実際に姉の家を出て、国分寺駅のホームに溢れる人の姿を見たときに、地方民の感覚による安易な想定が、まったく通用しないことに気づく。

「近隣県も含め4千万人近い人口を抱える東京圏は、長きにわたり世界一の都市圏だ。この人口集積を支えるのは、公共交通機関の発達である」

数日前の新聞で目にしたこの記事は、むしろ日本的な都市生活のスタイルを称える内容だった。しかし、数分おきに発着する電車がかろうじてさばく巨大な人口は、いったんそれがストップすると、どんでもない数の人々の滞留と渋滞を招く。

JRは超満員で、どの駅のホームにも乗り込めない人々があふれていたが、駅によっては入場制限をしていたようだ。ようやく浜松町に到着して、全身の圧迫から解放されたが、こんどはモノレールの改札に入るための長い行列がある。それが駅の外の広場で何重にも折り返しているのだ。別の方向からの行列とも隣接しており、誘導の駅員が少ないため、そもそもこの行列が正しいのか、どのくらい並べばいいのかがわからず、いらだってしまう。

しかし周囲を見回すと、みな平然として並んでいる。やがて意外なくらいあっさりと行列が進んで、モノレール駅構内へと誘導された。おそらく、災害や混乱や行列への経験値が違うのだろう。このくらいの混乱なら、騒がずともすぐに解消されるし、そもそもイライラしてもどうしようもない。

いつも東京の滞在中は、もし大きな災害に襲われたらどうなるだろうか、とばくぜんと不安に感じてはいた。今回は「計画運休」による混乱だったが、自分にはいいシュミレーションになった。やわな自分には、実際の被災の場面では、とうてい耐えられないだろう。

 

上池台3丁目と東雪谷4丁目

東京都大田区の住宅街。商店街や工場や目立つ公共施設があるわけでもなく、特に特徴がない地域だ。地名に「台」と「谷」がつくくらいだから、地形には起伏があり、坂が多い。

東雪谷4丁目の方は、洗足池へと流れる狭い水路があり、細い緑地帯にもなっていて、周囲には路地めいた住宅街があったり、急な坂の上には病院や社宅があったりする。

上池台3丁目の方は、比較的平らな土地で、区画も整然としている。新しい住宅も多い印象だ。上池台3丁目公園が唯一の公共スペースになっていて、大通りに面しては、飲食店などが並んでいる。

どんなに平凡な街並みでも、この土地で生まれ育ったり、実際に生活をした人なら、特別な場所になるだろう。しかし、隣接する二つの地域をあわせて、それを特別な地域としてひとまとめにするような視線は、特異なものだと思う。

僕は、大学を卒業後、とある生命保険会社に就職した。初めの4カ月が研修期間だったが、その中でメインの研修は、2カ月にわたる販売実習だった。新人が二人一組で、ある地域が割り当てられて、ゼンリンの住宅地図を片手に飛び込みの営業を行う。比較的売りやすい貯蓄型の商品も扱っていたため、ノルマは10本だった。

この二つの地域が、僕たちペアの販売地域だった。毎日寮からバスでやってきて、一日中歩き回った。まずアンケートをお願いして、そのデータをもとに資料や設計書をつくって再訪する。そこから契約に結びつく家がどうにか出て来るのだが、そもそもアンケートに応じてくれる人が、訪問先の一割にも満たなかった記憶がある。

他の地域の新人ペアに後れをとって、ペア同士ケンカをしたり、公園で休んでいるときに、近所の子どもたちと親しくなって遊んだり、地域の方の温情にすがって契約をいただいたり、二か月とはいえ様々な思い出がしみこんだ土地だ。なんとかノルマが達成できた喜びも、今ではもう実感できないが、大きいものだったろう。

僕は保険会社を3年で辞めて、その後営業の仕事はしなかったから、この土地が特別な思い出のある場所となった。今までに何回かは立ち寄った記憶はあるが、職業人としての終盤にさしかかって、そのスタートを刻んだ土地は、ますます「聖性」を帯びてきたのかもしれない。

今回、実際に歩いて、あらためて二つ発見があった。

セールスマンお断り、という表示が昔からあるくらいだから、地域の住民にとって、勝手に営業の拠点にして、短期間営業活動をする販売員など、地域のよそ者であり「敵」でしかないかもしれない。しかし、そこから、こんな風に何十年も土地に愛着を持ち続ける人間が出てこないともかぎらないのだ。人と土地との関係は、一筋縄ではいかない。

僕は、今地域を自宅の周囲に限定して、時には出会った人に気軽に声をかけながら歩くという「大井川歩き」の試みをしているが、その原点にはこの営業活動があったかもしれない。実際に今も、ゼンリンの住宅地図のコピーに、話を聞けた人が住む家にしるしをつけたりしているのだ。

このつながりは、いままで考えたこともなかった。人生、何がどう役に立つかわからない。

 

二つの聖地

実家の整理の話があって、急遽東京にいく。早い飛行機にのったが、初日は用事はない。近頃は内向きの生活をしているせいか、行きたい美術展も名所旧跡も観光スポットも思い浮かばない。それで、聖地巡礼をすることにした。

実は、初めからそう思って訪ねたわけではない。振り返って、あとから聖地巡礼だったと思っただけだ。聖地というからには、その土地が「聖性」を帯びていないといけない。聖性というからには、たんなる面白さや物珍しさを提供する場所ではなく、かけがえのない一回限りの出来事の刻印を帯びている場所でなければならないだろう。

あらためてそう考えると、ぶり返した暑さのなか、引き寄せられるように訪ねた二つの場所は、なるほど僕にとっての聖地だと思える。交通の便も悪く、第三者にはなんの変哲もない地域だろうが。

訪ねた順番は違うが、まずは多少聖地らしい場所から。

浅草で乗り換えて、東武線の東向島駅で降りる。東京の西の多摩地区の人間には、なじみのないあたりだ。少し歩くと、かつての私娼街玉の井に出た。電車沿いの道から斜めに伸びる商店街は、ごく平凡なものだが、一歩わき道に入ると、永井荷風が「迷宮」と呼んだ路地の面影が残っていた。

僕にとって『濹東綺譚』は父親の朗読の声の記憶とセットになって、唯一無二の作品になっている。その舞台となった土地を実際に歩けたのは、やはり感無量だった。

ところで、今回の帰省では、国分寺の姉の家に泊ったのだが、新しいカフェの案内本の一部を、父親風に朗読し、そこにランダムに『濹東綺譚』の一節(例えば「サービスに上等の糊を進呈」とか)を挿入するという即興の遊びで、ゲラゲラ笑い合った。こんな遊びが成立するのは、この姉弟だけだろう。

もう一つの聖地は、山手線の五反田駅から池上線に乗り換え、洗足池で降りて、南に一キロばかり歩いたところにある。この東京の南部のあたりも、多摩地区住民にはあまりなじみはない。

日差しが強く、僕はコンビニに駆け込んで、生まれて初めて日傘を購入してさして歩いた。

 

次男の子育て(のぞみ園)

3歳から3年間、毎週一回、療育施設「のぞみ園」の療育訓練を受けにいくことになった。この施設の先生たちには大変お世話になった。今でもたまに、次男を連れて行ったり、親だけで訪ねたりする関係を保っている。海水浴やバーベキューなど行事もあって、保護者の方たちとの交流もありがたかった。次男より重い障害の子どもさんのいる家族の頑張りには励まされた。

幼稚園の年少さんに入園する年齢だったが、長男と同じ幼稚園のリトルという入門コースみたいなところに母同伴で通園した。まるで言うことを聞かずに、勝手に園庭に飛び出すことが多く、妻には気苦労があったようだ。

4歳からは、二年間キリスト教系の幼稚園に入園する。障害に理解のある園で、補助のための専任の先生をつけてくれた。ワタルは登園すると、その先生の膝の上にちょこんとすわって、妻が迎えに行くまで、一日中面倒をみてもらっていた。

とにかく言葉の意味がわからず指示が聞けなかったから、街中でも手を離すと、どこまでもまっすぐ走って行ってしまう。繁華街で迷子になって警察に頼ったこともあるし、自宅周辺でも行方不明になり、近所の人たちが手分けして探してくれたこともある。

以下は、当時の次男の様子を僕が描いた「誕生会」と題した詩。

 

舞台のお友達は/自分のクラスの席にもどってください

今月/四歳、五歳、六歳の/誕生日を迎えた園児たちは/くものこをちらして/観客席の大勢の仲間の方へ/帰っていく

あとには/たくさんのカラの椅子と/椅子の一つに/ぽつんと座った/五歳のワタルがいて

先生の言葉の意味がわからずに/ぼんやり観客席の方を/ながめてた

今日は幼稚園のお母さんたちと百人分のカレーを作って疲れちゃった

仕事から帰って/妻が持ち帰ったお祝いのカレーの残りを食べながら/とおい舞台の/ワタルを見つめる

 

次にワタルにの身に大きな変化を訪れたのは、5歳の誕生会から半年経った秋の初めだった。

 

 

次男の子育て(乳幼児期)

次男のワタルが二十歳になり、障害基礎年金の請求手続きをした。軽度の知的障害だから、認定は難しいかもしれないが、親の義務として必要な手続きはするべきだろう。といいながら、医師の診断書をとるのに手間取り、ずいぶん遅れてしまった。

認定請求には、病歴の記録がいる。それで、妻が残した二冊のノートを読み通しながら、20年間の子育てを振り返る、良い機会にもなった。

ワタルの頭打ちが始まったのは、1歳になる頃だったと思う。うつぶせに寝そべって、頭を床に打ちつける。ぐずりながら、それがおさまらない。仕事から帰って家に近づくと、頭打ちの音が道路までも聞こえてきて、ゆううつな気分になったことを覚えている。

言葉もなかなか出てこない。2歳になったときに小児科の専門医に診せると、3歳までに言葉が出なければ、知的障害の可能性があると診断された。その後は、一喜一憂しながら、ワタルの成長を見守ることになる。ノートの一部を抜粋してみる。

 

2歳1か月 こっちへおいで、というと来るようになった/ミニカーを見て「ブーブー」という時もある/人がしゃべる時、その口をじっと見るようになった/はっきり私のことをママだと思って「ママ」と呼んだ気がする/頭を打ちつけたとき「やめなさい」というと素直にやめるときもある

2歳7か月 こおり・ちょうちょ・むし(ブシ)・いっちゃった・牛乳(ニューニュー)・ばいばい・こっちこっち・まんま・きりん(ニリン)・ぞう・くま・目(メメ)・あし・くつ(クック)・ぼうし・ばなな(バーバ)・おにぎり(ニンニ)・パパ・ママ・車(ブーブ)・汽車(キシャーポッポ)・ねんね・はさみ(チョッキン)・おしゃぶり(チュッチュ)・ひこうき・はいどーぞ・かしてかして・おふろ・おいしい・いたい(イテー)・うま・ぱんつ・さる(キャッキャ)・鳥(ポッポ)・耳(ミンミ)・りんご(ンーゴ)

2歳8か月 どうしてじゃー/ぽんぽんかいて・りんごおいし-・おにんにおいしー、など2語文をはじめてはなす

3歳0か月 ちょっとまっておとーちゃん・にーちゃんおかえり・だめだめ(ガメガメ)

 

なんとか、2語文らしきものは話すようになったが、言葉の数が少ない。他の子どもなら、言葉を爆発的に吸収し、自分のものにしていく時期なのだろうが、その力強さがない。3歳になって診せると、小児科医は、世間では言葉の遅い子があとから追いつくことがあるといわれるが(夫婦はそうであることに望みをつないでいた)、その可能性は少ない、つまり、遅れは障害となって残ることをはっきり告げられた。

僕は、学生時代に「障害者の自立生活運動」を身近に体験していたから、長男が生まれる時には、自分の子どもが「障害」をもっている可能性について勘定に入れていた。次男が無事に生まれた時には、自分の家族にそういうことがなかったことを安堵する感情がなかったとはいえない。

しかし、この時から、次男の「障害」と向き合う生活がはじまることになる。

面接試験の指導をする

知り合いに頼まれて、面接試験の指導をした。経験が少ないにもかかわらず、受験指導となると、つい力が入ってしまうのが悪い癖だ。さらには、そこそこの指導技術があるのではないかと勘違いしているものだから始末がわるい。

受験生は外見も態度も悪くない。真面目な人間なので、想定問答もしっかりつくってある。にもかかわらず、言葉が胸にひびかない。全体的に単調で、一本調子な感じがする。言葉がこちらに届く前に、受験生の顔の周辺に張られたバリヤーの内側に当たって、全部真下にぽろぽろ落ちてしまっているみたいだ。

自分のアピールポイントを、少ない数のキーワードへ煮詰めて、その必殺の武器を面接官に撃ち込むくらいの気迫で話すべきではないか。しかしこうした抽象的なアドバイスでは、目に見えた改善が見られない。

困り果てて、受験指導で有名な先生から直接教わった若い知人に、その指導の内容を聞いてみた。そして驚いた。

用意する回答の内容は、イメージが浮かぶものにすること。実際にそのイメージを浮かべながら話をすれば、面接官もまたイメージをつくりやすく印象が強くなる。そのためには、できるだけ自分の体験したエピソードを盛り込むべきだし、また、即答せずに、少しつまったくらいに話し出したほうが、自分の言葉を話していると評価される。

キーワードはイメージである。なんという簡単で実践的なアドバイスだろう。やはり餅は餅屋だ。実際の指導の場で試行錯誤しながら、つくりあげてきた指導法は、シンプルだが切れ味がちがう。

あくまで自分はアマチュアなのだと打ちのめされながらも、その指導法だけはさっそくパクらせてもらった。受験生の幸運を祈る。

 

 

泉鏡花の戯曲を読む

学生の頃、図書館で泉鏡花全集を借りてきて、ところどころ読みかじっていた時期があった。法律の勉強にあきて、現代思想にのめり込む前の、ごく短い期間だったと思う。よくわからない言葉も多く、描かれる風俗習慣は別世界だ。しかし、読むとその作品世界にすっと入っていける気がした。特に『歌行燈』が好きで、当時は、最高の小説だと確信していた。

その後、本当にまれに(10年に一度もないくらいだが)泉鏡花を手にとることがあって、そのつど面白いという印象は消えなかった。

最近、ようやく小説を読む習慣を取り戻したので、泉鏡花(1873-1939)の薄い文庫本を読んでみることにした。岩波文庫の『海神別荘 他二編』で、鏡花の三つの戯曲が入っている。短いとはいえ戯曲だから読みにくさはあるのかと思ったが、三篇とも面白く、一気に引きこまれた。

ストーリーは、どれも荒唐無稽で、それを紹介しても、なぜこんな話に魅了されるのかは伝わらないと思う。試しに「山吹」という作品をみてみよう。

温泉町から抜ける山道にある料理屋が舞台。人形使いの醜い老人が酒を飲んでいると、美男の洋画家と子爵夫人が現れる。美しい夫人は、結婚生活が破綻し、温泉町に逃れてきたところ、かつてあこがれた洋画家の姿を偶然認めて後をつけてきたのだ。洋画家に救いを求めるが、仕事に信念を持つ画家からは断られる。やけになった夫人は、人形使いの老人の要求を何でも聞こうと申し出ると、かつて若い女性を傷つけた罪の意識にさいなまれている老人は、夫人に自分を雨傘で叩きのめすことを求める。夫人は、それを実行し、さらには、この醜い老人と心中して、あの世までも老人の望みをかなえてやろうと言い放つ。洋画家は夫人を救う決心がつかず、二人を見送るしかない。

三つの戯曲の主人公はいずれも美しい女性で、にもかかわらず現実世界では虐げられる運命にある。そんな彼女らは、ある瞬間、現実世界にきっぱりと背を向ける覚悟をきめる。それは反社会的、反倫理的なふるまいではあるけれども、一本筋の通った美的決断ともいうべきもので、鏡花の筆は、それを鮮やかに、あでやかに描きつくす。

文庫本の解説に、渋沢龍彦との対談での三島由紀夫の鏡花評が引用されているが、鏡花の核心を突く言葉だと納得した。

鏡花は、あの当時の作家全般から比べると絵空事を書いているようでいて、なにか人間の真相を知っていた人だ、という気がしてしようがない