大井川通信

大井川あたりの事ども

自由の彼方で 椎名麟三 1954

語り手は、1927年に数えで17歳の若き日の自分山田清作を「死体」として回想を始める。第一部では、親元を家出して、大阪でコックをしていた当時の不良少年仲間との交渉が語られる。第二部では、1929年に神戸で私鉄の車掌となり、非合法の共産党員となって労働運動に奔走。第三部では、逃走生活の果てに逮捕、投獄され、出所後に姫路のマッチ工場で困窮の生活を強いられる。

次々に語られる女性関係は、ひねくれてねじれた欲望によるものだったり、衝動的なふるまいであったりと、無残な印象を受ける。それは共産党員になって労働運動を行っているときも、転向後の工場労働者のときも変わらない。主人公の精神的な成長や朋輩との交流の深化という物語とは無縁の、ぶつ切りで単独の事実が無慈悲に並べられているだけだ。

これは、自分の姿から魂を抜いてあくまで「死体」として眺めるという方法によるものだろう。では、なぜ死体なのか。未来に向けて、他者とともに現実の改変に努めるのが生きた人間の姿であるというなら、若き清作は、その未来という場所を持たないのだ。彼は大阪のコック時代に、喧嘩の時に自分で頭からガラス窓に飛び込むことを繰り返し、「いつのまにか、意識的に、自分の血と死を、相手の自由を奪う手段にするようになっていたのである。」

こうして、清作の「死体」としての行動原理は、粗暴な衝動によるもの以外は、突然の共産党員の名乗りのように、自らをさらに死へ追いやることで、現実との関係を作るというものになった。第三部では、精神的、肉体的に追い詰められて、毎夜首吊りの衝動にかられる「廃物」として死体そのものにいっそう近くなってしまうのだが。

しかし、だとしたら、末尾で予告される清作の死と天国での復活とは何だろうか?あるいは、過去の自分をかたくなに拒否するこの語り手の存在とは?