大井川通信

大井川あたりの事ども

荒神 宮部みゆき 2014

今年になって文庫化。恐ろしい山の神がもたらす災厄を江戸時代の山村を舞台に描いていると聞いて、ふだん手にしない人気作家の長編を読んでみた。おそらく娯楽小説としてよくできていて、とくに結末に向けてどんどん物語にひきこまれた。ただ、読書の関心が、自分の大井川歩きの経験とどうつながるのか、この経験を自分なりに読み取ったり、読み替えたりするのに役に立つのかという点にあったので、肩透かしを食った印象の方が強かった。

元禄時代の東北の小藩という異世界を舞台に借りて、読み手である都会育ちの現代人にストレスなく面白い物語を提供する作家の熟練の技と、大井川近辺で過去の人々の暮らしに迫るという営みとがかみ合わないのは、当たり前のことかもしれない。大井川流域の山の神は、標高120メートル程の里山に鎮座するヒラトモ様やクロスミ様である。この小説の舞台ははるかに山深い場所であるはずなのだが、なんだかそのリアリティや怖さが感じられなかった。

その原因はなんだろうか。まず、「荒神」の正体である「ツチミカドサマ」は、どんなに異様な姿であっても、目に見える物理的な存在にすぎない。そして、「荒神」が誕生したのも、呪術という非日常的な手段によるにしろ、特定の人間の意志を出発とする因果関係の結果である。さらに、問題を解決するのは、特別な血筋をもつ個人の英雄的な働きによる。荒っぽく言えば、ヒトが生み出したモノが暴走してヒトを傷つけたので、製造物責任を有するヒトがそれを回収するというストーリーなのである。ここにはヒトを超える真に超越的なものは存在していない。

僕が大井川流域で追体験しているリアリティは、これらとは正反対だ。恐怖は、具体的なモノではなく、場所や土地そのものにある。一村を滅ぼすのは、醜い怪物の力によるまでもなく、伝染病や日照りで十分だ。しかも神の怒りの原因はまったく不透明で、だからこそ村人は見えない神に恐怖し、その神が住む山を崇めたのだろう。こういう観念の仕組みを支えるのは、村の生活の共同性なのであって、外部の個人によってコントロールできるものではない。

見えないものや不条理な事態とともに生きる、という暮らしの流儀は、現代社会からは失われてしまった。『荒神』が、おどろおどろしい事件を扱いながら、原因究明と問題解決の個人主義の精神に貫かれているのも、当然なのである。