大井川通信

大井川あたりの事ども

倉敷と浦辺鎮太郎

倉敷は本当に面白い街だった。いわゆる美観地区という白壁の蔵と町家が連なる地域だけでなく、その周辺の街並みとの関係がとくに興味深い。

まずは美観地区の伝統建築の圧倒的な充実ぶりである。たいていこの手の街は、街道に沿って建物が一列あるだけだったり、復元した建築が目立ったり、あちこち虫食いのようにほころびが見られたりする。しかしここは、面として街並みがメンテナンスされていて、全く隙がない。しかし、これだけ軒が低く間口の狭いミニチュアのような街並みが続くとそれも単調である。大原美術館中国銀行、旧町役場といった西洋模倣の建築の姿がむしろアクセントになっている。

ところが、戦後、美観地区の周囲に開発の波が押し寄せて、まるでスケール感の異なる道路と建物群を作りあげた。美観地区は、隔離されて映画のセットやテーマパークのようにも見えてしまうのはどうしようもない。

首謀者は大原家なのだろうが、この時、浦辺鎮太郎が生涯に渡って設計した建物が果たす役割が面白い。浦辺は、美観地区に隣接して、あるいはやや離れて、ホテルや市民会館、病院、市役所など大容量のコンクリートの建物をその四方に建設して行く。それらには、必ず、伝統的な蔵や町家の細部が引用され、あからさまにイメージの連続が図られている。高台の阿智神社から街並みを見下ろすと、芸文館などは巨大化した蔵に見える。

隅櫓という言葉が実際に使われたようだが、浦辺の建築群は美観地区を警護するとともに、そのイメージを力強く発信するヤグラの役割を果たしているようだ。実際の効果以上に、街をデザインし「ゲマインシャフトを形にする」(浦辺の言葉)意志がすがすがしい。