大井川通信

大井川あたりの事ども

『中動態の世界』(國分功一郎 2017)を読む(その3)

ほんの少し前までは、つぶやく、というのは徹底して私的な行為だった。独り言を小石のように道端に投げ捨てる。言葉は、即座に砂利に紛れて消滅し,当の本人は、つぶやいたことなどすっかり忘れて、目的地へと急いでいる。行為者は、つぶやきという行為の外側にまったく無責任でいられたのだ。しかし、今や「つぶやき」は、ネットに拡散し、つぶやいた主体をさらし続ける。つぶやきが引き起こす一連のプロセスの外側に逃げられない、という意味で、すっかり「中動態」化したといえるだろう。ところで、こうした現在進行形の事態の起源は、どこにあるのだろうか。

乱暴な言葉使いで言うと、近代の資本主義的な生産の開始にそれは見いだされると思う。それまで個人が単独で行っていた生産行為が、工場内での分業が始まると、様々なパーツに分解されてしまう。無意味なパーツを担う労働はどう変質するのか。生産過程の中でしか意味を持てない、プロセスに埋め込まれたものとなるだろう。と同時に、そのパーツにかかわる意志は、あくまでプロセスへの同意に基づく「非自発的な」ものとならざるをえない。分業が、工場内にとどまらずに、社会全体へと広がるなかで、こうした行為の変質もいっそう進行していくだろう。

グローバル化とか情報化といわれる現在は、その延長線上にある。直近には、つぶやきなどという身近で私的な仕草までが、巨大化したプロセスやネットワークにからめとられてしまった。行為の全面的な「中動態化」と呼ぶべきダイナミックな事態は、この本で描かれる精緻な「中動態の世界」とは、かなり肌合いの異なるものかもしれない。しかし、奇妙に難解なこの本が、少なくない読者から好意的に(ときに感動すら伴って)受け止められている一因は、このリアルな事態の方にあると思う。