大井川通信

大井川あたりの事ども

人知れず 私 (原田一言詩抄)

大井村の賢人原田さんは、荒れ果てた民家を借りて、何年もかかってほとんど一人で改修して、古民家カフェの体裁を整えた。僕が四年ほど前にたまたま入店したのは、そのリニューアルオープン日だった。早朝の新聞配達で店の運営を支えていた原田さんは、幼稚園の手伝いに職を変えたので、昼間や夕方に訪ねても留守が多くなった。原田さんが仲間に任せているカフェも休みがちだ。

先日、暗くなってから店に入ったが、原田さんはいない。店の隅には、小さく切った和紙やカードに墨で字が書かれたものが、ホコリをかぶって置かれている。隣にはお布施箱が置かれていて、自分で決めた値を払ったらいいことになっている。

言い忘れたが、原田さんは宗教家であり、書家であり、詩人である。めったに口にしないが宗教はその道の権威といえる師匠につくなど、10代の頃から遍歴を重ねている。書は友人の書家に習ったものだ。詩は独学のようだが若いころから書いている。サラリーマンや販売の仕事をしたあとに、理想のムラをつくるという夢を実現しようと、50代半ばを過ぎてからこの土地にやってきたのだ。それから10年間、少数の仲間とこつこつムラ作りに励んでいる。しかし大井村では、ちょっと怪しげな、人のいい流れ者といったところだろう。

僕はあらためて原田さんの「一言詩」を走り読みして、三枚を選び出した。読むほどにその三枚が動かしがたく思えた。三つの句で、世界の総体をカバーしているといっていい。原田さんが帰ってこないので、僕はお布施を払って無人の店を出た。

その一枚目が「人知れず私」。世間も宗教も哲学も科学も、人間などみな共通の性質をもつものだとタカをくくっている。共通項である人間を立派なモノととるか、愚劣なモノとみるか、精妙なモノと観察するかの違いにすぎない。たしかに自分などは、職場の同僚にも、家族にも、知れ渡った存在だ。何か特別な存在であると思いあがるのはとんでもない錯覚と嘲笑されても仕方ないだろう。

しかし本当にそうなのか。ある時、突然世界に投げ込まれて、この世界を開き体験する中心として生き続け、いつか突然世界の外へと撤収される、この私。この世界の唯一の主役として、「天上天下唯我独尊」である他ない私。永井均が〈私〉と表記する自分は、徹底して孤独で、「人知れず」あるほかないのだ。