大井川通信

大井川あたりの事ども

哲学者廣松渉の少年時代

本屋に行ったら、岩波文庫の新刊の棚に、廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』が並んでいた。初めての文庫化ではないが、岩波文庫に入るのは古典として登録されたようでまた格別だ。廣松渉の逝去から、もう20数年が経つ。僕自身は、廣松さんの話を直接聞いたのは講演会での二回だけだが、不思議な因縁があって、廣松さんの少年期の聞き取りをすることができた。

2009年の3月だから、10年近く前のことだ。その時の職場の上司が、柳川出身だったので、飲み会の席の苦し紛れの世間話で廣松渉の名前を出したのだと思う。すると、上司が同郷の偉人として知っていたのだ。それをきっかけに上司の家にお伺いして、廣松を直接知る上司の母親からエピソードを聞いたり、上司のお兄さんに案内されて、廣松が住んだ家の跡や、廣松が伝習館高校時代、塾を開いていたお寺なども訪ねたりした。以下は、その時のメモ。

 

上司のお母さんは、昭和9年生まれ。蒲池小学校で廣松渉と同じ学年だった。当時は男女別のクラスで、長身の「渉さん」の姿はよく覚えていたが、口を聞いたことはなかったという。ただ渉少年が、カバンも教科書も持たずに学校に通い、それでも先生をやり込めるほど勉強ができたというエピソードを教えてくれた。

渉少年のお母さんはきれいな人で、外出の時は着物姿で歩いていたという。廣松家が戦後困窮して養鶏業に手を出していたときには、卵を売りに来ていた。妹の「るみさん」や、廣松の親友だった廣松俊隆さんの名前も覚えていた。

廣松渉の住んでいた家は、街道から細い路地を百メートルばかり入った所にあった。レンガ造の家の脇のほの暗い小道は、渉少年が歩いた当時の面影を残しているだろうが、家はもう壊されて、周囲の草地のどこにあったかわからなかった。入り組んでやぶにおおわれていたというクリークの堀も、護岸整備されて明るく生まれ変わっていた。近所に残る廣松姓の家はいわゆる馬喰(ばくろう)が多くて、柵の中でしきりに馬が歩きまわっている。

廣松渉は死の半年前に故郷を訪ねており、蒲池駅での記念写真が残っている。実際に見ると、小さな駅舎の先にホームが二本あるだけの殺風景な駅だが、この土地を拠点に、10代の濃密な時間を過ごした廣松渉には、特別な思い出のあるプラットホームだったのかもしれない。