大井川通信

大井川あたりの事ども

ブログを書く理由

ネットに弱いということもあって、SNSで何か書く気持ちはなかった。社会人になってからは、何かを発信する欲求や、それで承認を得る欲求については、少人数の勉強会や読書会、個人あての通信の形式で満たすような習慣がついていて、それで不満もなかった。漠然と、未完成で未熟なものを不特定多数に見せたくはない、ということを流行の表現手段に手を出さない理由にしていたような気がする。また、ここまで来たら、旧式のやり方にしがみつくことを自分のアイデンティティにしようという気持ちもあった。たんにおっくうで、新たな環境に適応することに怠惰なだけだったのだけれども。

たまたま一年ほど前、評論家岡庭昇の娘さんが、父親の作品を読むというブログを始めたことを知り、どうしてもコメントを書きたいと思った。これが柄谷行人なら、そんな気にはならなかっただろう。彼には大勢の読者がいて、十分な評価を受けているから。しかし岡庭は、ある時期の自分にとって大切な批評家でありながら、正当に評価されているとは言えない。そのために「はてな」に登録したら、思ったより簡単にブログを利用できることに気づいた。せっかくならこの場で自分も岡庭の読み直しをしてみようと書き始めたのがきっかけである。

思考錯誤はあったけれども、今では自分の関心を広く盛り込む形で、毎日記事を公開していこうと考えている。もちろん、内容的にも文章的にもとても未熟なものだけれど、後から簡単にメンテナンスできる機能に気づいた。仮にも「公開」している以上、それを放置できないという点で、自分の考えや表現を見直す動機になるのがありがたい。また、カテゴリーによる分類(の見直し)をしていくなかで、自分の思考や経験の諸要素をあとから関係づけたり、編集しなおすことができることも優れていると思った。年齢とともに衰える記憶などの知的能力を代行、補強してくれるという印象である。

今後、コンテンツを充実させていけば、まとまった意見を言わなければならないときも、そのためのメモを持参しなくてよくなるだろうし、知人に自分の特定のトピックにたいする考えを簡単に読んでもらえるようになるだろう。

こんなふうにきわめて私的な理由で書きついでいる中途半端な記事に目を通していただいている方には本当に感謝している。非力ながら少しでも明確な文章にしようという励みになっています。

ところで、いかにも旧世代と思われそうだが、たとえ匿名であっても自分の言葉を「公開」することには、遠慮というかおびえのようなものがあった。それが気にならなくなったのは確かである。考えてみれば、未熟な自分を半ば公開しながら生きているというのは、この社会の中の実在の自分もまったく同じだ。誤解や批判を受けがちなことや、自分が思うほど他者は自分を気にしていないし振り向いてくれないことでも両者は共通している。ネットワークというものは、人間の本質的な在り方であって、規模や仕掛けが変わっても、その中の居心地はたいして変わらないということだろうか。