大井川通信

大井川あたりの事ども

新宿思い出横丁と『永続敗戦論』

今回の帰省では、喜多方ラーメン坂内ばかり食べていた。立川店、有楽町店、そして新宿思い出横丁店。坂内は、とろけるようなチャーシューが特徴なのだが、カウンターだけの小さな思い出横丁店は、歯ごたえのあるチャーシューが、それも他店の倍くらい入っていた。

新宿には何度も来ていても、思い出横丁を意識して歩いたのは、初めてである。路地に面したカウンターだけの小さな飲食店をのぞきながら、ふと『永続敗戦論』のことを思い出した。この本は4年ばかり前に出版されて、評判になったものだ。著者は若い学者で、レーニン論でデビューしているから、元気をなくした左翼陣営の期待の星として必要以上にもてはやされたところがある。内田樹ですら、対談本を出している。

ただ読んでみて、あまり感心するところはなかった。特にうんざりしたのは、エピローグで披露された思い出横丁でのエピソードだ。著者が思い出横丁で飲んでいると、アメリカ人の観光客の若者が入ってくる。すると一人酒の60過ぎの親父が、突然アメリカが大好きだといって握手を求めた、というそれだけの話である。

ところが、著者は「ムズムズするような不快感が腹の底から湧き上がってくるのをはっきりと感じていた」と書く。彼の理屈はこうだ。戦争の焼け跡と闇市をルーツにしている場所で、街を焼いた張本人の末裔に愛想をふりまく親父は、日本人として「下劣」ではないか、と。

腹の底から、あほかと思う。明らかに戦後生まれの親父を含め、戦争の当事者はそこには誰もいない。都合よく当事者に成り代わって、他者を裁くことなど誰にもできないはずだ。なるほど考える自由はあるだろう。しかし、手前勝手な理屈や物差しを振り回して、生身の人間を「下劣」と断罪するような人間は、書き手として低劣である。

当時は、著者の文章に不快感を抱くだけだった。しかし今なら、『観光客の哲学』に従って、アメリカの若者と飲んだくれの親父との「出会うはずのないものの出会い」に希望を見出すことができるだろう。本物の書き手も存在するのだ。