大井川通信

大井川あたりの事ども

テッド・チャン その他の短編

あなたの人生の物語』を含む短編集(2003  ハヤカワ文庫SF)について、再読に備えての覚書。一読後のメモのため、間違いや誤解を含む。

◎『バビロンの塔』

バベルの塔が完成し、天に届いたという幻想的な設定を、天の表面を「掘りぬく」ために塔に登る鉱夫の視点からリアルに描く、奇妙な感覚にとらわれる作品。結末の「現実」への回帰もよい。 

◯『理解』

植物人間状態であるホルモンを注入されたために、知的能力を増強されて、やがてその臨界を超えるまでに至った主人公の行動と、もう一人の臨界超越者とのいわば「天上の」戦いを克明に描いて手に汗握る作品。「ひとつで全宇宙を表現する巨大な象形文字」という『あなたの人生の物語』につながるアイデアも含む、近未来的な着想の嵐。

△『ゼロで割る』

スタイリッシュだが難解。そのため読了後もカタルシスはない。9個のパートの分かれ、まずは数学基礎論をめぐる話題、次にaとして、女性数学者レネーの記述、次にbとして夫のカールの記述が続く。レネーは数学の無矛盾性を信じ、レネーは感情移入による人間理解を信じている。おそらく数学基礎論でのトピックの記述と、二人のそれぞれの真実の変遷とが対応しているのだろう。最後に至って、二人に起きた信念の崩壊は共有されるが、それは二人の関係に悲劇をもたらすものだったというオチか。パズルを解くように読み解く面白さはあるかもしれない。

 ◎『72文字』

面白かった。生物の発生をめぐる前成説にオートマンやホムンクルス、それに王立協会。錬金術の時代のようで、しかし「名辞」をめぐる架空の科学が支配する世界となっている。その科学の文脈での、作者らしいねちっこい議論の展開とともに、科学者、政治家、神学徒、技術者、殺し屋が入り乱れての活劇もあり、飽きさせない。

△『地獄とは神の不在なり』

天使の降臨による奇跡や、地獄の顕現などが実際におこる世界を舞台にリアリズムで物語を進めていく例の手法。天使の降臨を追いかけるライトシーカーたちは、まるで竜巻を追いかける科学者みたいだ。ただ骨格となる神をめぐる思弁が、日本人にはリアリティがないので今一つ追いかけきれず、結末も腑に落ちない。繊細な感情の動物である人間に対して、気まぐれで杓子定規な原則主義者の神ということか。

◯『顔の美醜について』

容貌の良し悪しが認識できなくなる「美醜失認装置」が開発された近未来が舞台。ある大学での、この装置の義務化の是非を問う選挙の行方をメインの物語にして、様々な立場からの短い発言をパッチワークのように並べた作品。ストーリーの面白さはないが、顔の美醜をめぐる思弁は、貴重で役に立つものだ。ここでも、架空の科学的設定を出発点とするリアリズムと微妙な人間心理が描かれる。