大井川通信

大井川あたりの事ども

『うしろめたさの人類学』 松村圭一郎 2017

この本を読者への「越境的な贈り物」にしようとする著者の真面目さは疑えないが、一読後の印象は微妙で、少なくとも『弱いつながり』のような希望を感じることはできなかった。その理由を考えてみる。

当初の連載時のテーマが「構築人類学入門」だったためだろうが、構築人類学に何ができるかという問いに終始していて、部外者にはこれがやや耳障りだった。ある学問が何かの役にたつとしたら、その専門的な研究の成果においてだろう。ところが、この本では、エチオピアでの調査旅行がエピソード的に触れられるだけで、本編の構築人類学の理論編とのつながりが感じられない。そしてこの理論の内容は、とくに最新の人類学の成果というより、現在の社会科学の常識と思われるものなのだ。

商品交換(市場)、贈与(社会)、再分配(国家)。教科書で説明されるような三つの領域が、現在の社会において強固に分離されている、あるいはそうイメージされている、と著者は唐突に断言する。なぜ異文化理解の専門家が、自国の社会についてこんな乱暴な診断をするのだろうか。著者は続けて、構築人類学にできることは、この分断の境界を揺るがすことである、と宣言する。辛辣に言えば、わかりやすい処方箋を提示するために、課題を単純化しているのだ。

たとえば、著者は、大学教育の現場で市場の論理をずらすのが、境界を揺るがす自分の実践だという。僕は義務教育の教師の知り合いが多いが、市場の原理だけで教育をしている者など見当たらない。ほとんどの教師たちは昔から、著者と同じように、教育を「贈与」と考えて実践しているのである。だとしたら普通の教師にとって、著者の提案は少しも役に立つ示唆とはならないだろう。同じように企業の経営者も商店主も労働者も、自分たちの仕事を、単なる市場交換ではなく、社会貢献と考えてきたはずだ。

たしかに、旧世代の人間の「越境の仕方」がさびついてうまく機能しなくなっているのは確かかもしれない。しかし、周囲を見回すと、新しい世代が「異文化理解」や「うしろめたさ」を経由することなく、端的に新しい越境を始めている光景がある。著者の構築人類学は、この事態に届いていないように思う。