大井川通信

大井川あたりの事ども

『はじめに子どもありき』 平野朝久 1994

教育が、今とても困難なところに来ているのは衆目の一致するところだろう。ただ、その現状を、一方的な非難ややみくもな叱咤激励ではなく、適切に説明してくれる言葉はなかなか見当たらない。それで、自分なりに教育現場を外から観察して、仮にこんな見取り図を作ってみた。

おおきな曲がり角は、1980年前後だろう。僕はかろうじて古い時代の教育を受けている。教師は一方的な退屈な授業を行い、子どもたちは黙々とそれに従っていた。まさに規律訓練型の近代社会の教育である。それが80年代には、消費や享楽を中心価値とするポストモダンと呼ばれる社会の兆しが見え始め、それまで子どもたちを締め付けていたタガが緩み始める。そこから、「校内暴力」をはじめとして「不登校」「学級崩壊」等の問題が立て続けに教育現場を襲うことになる。

当時学校には「進歩的」なイデオロギーが蔓延しており、直接教育と関係のない政治的対立が持ち込まれていたために、子どもたちの変化に対応することができなかった。観念的な「子ども中心主義」は現場では無力で、以後批判の矢面に立つことになる。もっとも、教育学も教育行政も、この新しい事態には対応できず、危機感をもった現場の教師たちが、新しい教育技術の開発を目指したのが、「教育法則化運動」や「プロ教師の会」等の様々な在野の研究活動だった。

ところが、今でも教育をめぐる言葉の多くは、教育現場の変化をとらえきれずに、かつての枠組みを安易に流用しがちであるように僕には見える。ポイントは二つだ。現在の学校は、教師対バラバラな多数の子どもという、おそろしく困難なコミュニケーション環境にある。その現実を見ないで、難なく規律が取れていた70年代以前の関係を妄想する言葉がはびこっている。

もう一つは、教えることに対する固定した考え方だ。これからはアクティブラーニングの時代だからといって、子どもに主体的、対話的学びを教える方法を、教師に一方的に伝達するという倒錯(教師と子どもとの二重基準)にそれは現れている。教師が自ら実践できない学びを、子どもたちに教えることなどできないだろう。

前置きが長くなった。この本の題名からは、かつての観念的な「子ども中心主義」が連想されて、正直なところあまり内容に期待を持てなかった。ところが、著者のていねいな論述を追うと、むしろ80年代以後の状況にこそ必要とされる、教育の原理的な思想と方法が示されていることに気づく。

僕なりに要約すると、著者の主張する方法は、いくつかの段階に分かれる。まず、子どもを人として信頼すること。次に、子どもを自ら学ぶ存在(能動的学習者)として信頼すること。さらに、本当の学びが、行きつ戻りつの不合理な過程であることを理解すること。そして、教師もまた、そのつどの課題に対して、子どもと同様に現に学ぶ者でなければならないこと。最後に、学びがそれぞれ個性的であることを理解して、個別の支援に努めること。

これらは、一見理想論のように思われるだろうが、子どもの学びと真剣に向き合う教師たちの間で、古くからおこなわれてきたことかもしれない。著者の柔らかいけれども確信にみちた言葉は、近代の学校教育の歴史よりも深い、人を育てる伝統的な営みに根ざしているような気さえする。著者は、勤務校の東京学芸大で、教育方法学のレジェンドとして広く尊敬を集めているそうだが、それもなるほどと思える本だった。