大井川通信

大井川あたりの事ども

記事が消えた

夜中、ようやく一本の文章を仕上げる。漠然としたアイデアを、なんとかうまく文章に落とし込めた気がする。満足して保存のボタンを押したのだが、家のWi-Fiの調子が悪くて、サーバーとつながらない、と表示がでた。ジタバタしたのだが、結局、せっかくの文章が影も形もなくなってしまった。

困った。今なら、なんとか再現できるだろうが、これから作業をするのはつらいし、明日の勤務に差し支える。同じようなものならまた書けるかもしれないが、手塩にかけた我が子のような文章の微妙なアヤが、永遠に失われてしまうのは残念だ、と夜中なので変なことに思いつめる。ふと、スマホのボイスメモに録音しておけばいいじゃないか、とひらめいた。音声で入れる作業なら、5分もあればできるだろう。

これはいい思い付きで、すらすら作業がすすみ、念のため録音を確認してみることにした。正直、これは気がすすまなかった。録画や録音で見たり聞いたりする自分の姿や声に違和感を抱くのはよく聞く話だが、僕もまた自分の声は好きでないし、なにか生理的に受けない。6年前の演劇ワークショップの成果物のDVDでさえ、一度も見ていないのだ。

ところが、である。あれ、こいつ、なかなかいい声だし、話し方も悪くないな、と最後まで聞きほれてしまった。これはさすがに経験を積んで、発声や話法に磨きがかかってきたためだろうか。そう考えたいのはやまやまだが、おそらくこれも老化による変化の一つなのだと思う。それもかなり危機的な。

外部に対象化された自分の姿に他者の影を見出してとまどうというのは、とても微妙な感受性だと思う。その感覚が、自分可愛さのナルシシズムにすっかり飲み込まれてしまったようなのだ。相手の気持ちが読めなくなり、一方的に自分の話をしてしまうお年寄りみたいなものだ。まあ、それはそれで、本人(僕)にとっては幸せなことなのだろうけど。

衰えたこと、できなくなったことの自覚は、残念ながら避けられない。しかし、まだできることを足場にして、いまだできていないことへ向けて、しばらくは前にすすんでいきたいと思う。

 

【追記】後日、記事を書こうと録音をあらためて聞くと、声にはいつもの違和感、話し方も気持ち悪く、内容も大したことがなかった。なぜか深夜にはナルシストとなり、気恥ずかしい文章を平気で書いてしまうという例の現象の影響だったと判明。ちょっと安心した。