大井川通信

大井川あたりの事ども

「積極奇異」でいこう

僕は、人間の問題の大枠は、岸田秀の唯幻論で理解できると固く信じているので、「発達障害」についても、こんな風に思ってきた。

人間は本能の壊れた動物である。壊れた本能の代わりに、擬似本能として文化や自我をでっち上げて、なんとか種の存続を図ってきた。しかし偽物の本能だから、本物のように精妙には働かず、過剰や過少に傾きがちだし、故障しがちだ。

前近代までは、文化が本能の代わりをする割合が大きかっただろう。近代からさらにポスト近代に移行するとともに、文化の規制力が弱まって、個々の自我に任せらる場面が大きくなってくる。近年になって、発達障害が取りざたされるようになったのは、もともと不完全な代替本能である自我に負担がかかりすぎて、その失調が目立つようになったためだろう。メンタルヘルスとか、心のケアが、叫ばれるのも同じ理由だ。

もともと壊れ物であり、欠陥品である自我は、どれも「発達障害」的な傾向を持っているはずだ。診断が難しかったり、特徴に濃淡があったりするといわれるのは、そのせいだろう。ほころびが表に出るのは、程度の差にすぎないのだ。

そんなわけでさほど関心がなかったのだが、先日専門家から解説を聞く機会があった。そこで「積極奇異型」という社会性の障害のくくりがあることを知って、上手いことを言うなあ、と感心した。

僕は子どもの頃から、人間関係、特に多人数の中での関係が苦手だった。社会人を何十年もやってきた今でも、グループでの振舞いがよくわからないし、苦痛だったり、退屈だったりする。かといって、孤立して無口でいるというより、むしろ積極的に奇異な振舞いに打って出ることが多い。今でも、酒の力を借りることなく、場違いな羽目の外し方をしたり、つい自分の関心事をとうとうと語ってしまうこともある。そういう自分を手なずけて、まるめこんで、なんとかやってきたのが正直なところだ。

長い間、人間関係で失敗し苦しんできた人が、発達障害の診断を受けて楽になったという話を聞くことがある。僕の場合は、それと同列に語ったら申し訳ない気がするが、それでも具体的に言葉を与えられること、言葉の力で肯定されることは小さくないと実感する。

積極奇異。いいじゃないか。積極奇異でいこう。