大井川通信

大井川あたりの事ども

『第七官界彷徨』 尾崎翠 1933

昨年初めて読んで、とても不思議な印象だった。その印象にひかれて、すこし丁寧に再読すると、不思議さの背後に大きな独自性と魅力がひかえているのに気づいた。

まず、その文体。「よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだにわたしはひとつの恋をしたようである」という小説の冒頭に、文体の特徴は凝縮されている。言葉のレンズを通して距離を作り出し、対象を独特の色調と歪みでとらえるような文体だ。昭和初期の当時には、また別のインパクトをもったのだろう。僕が気づくのは、同時代の立原道造の詩の文体に似ている、というぐらいだ。行分けをすると、道造のソネットそのままだと思う。以下は町子の寝起きの描写を任意に行分けしたもの。

「その朝私はまず哀愁とともに眼をさました/台所から女中部屋にかけて美しい美髪料を焦がした匂いが薄くのこり/そして私を哀愁にさそったのである/もし祖母がいたならば/祖母はわたしのさむざむとした頸に尽きぬ涙をそそいだであろう/そして祖母は頭髪をのばす霊薬をさがし求め/日に十度その霊薬で私の頭を包むであろう」

つぎに、因果性の問題。小説は様々な人や事物を結び付けて、世界を描き展開する。その事物の結合と進行のルールを因果性と呼ぶとすると、それがとても独特なのだ。通常の因果性であれば、A→B→Cというよう順番につながるだろう。この小説の場合は、A→A´→A´´というように、事物は反復し変形し粘着し、飴のように伸びていく。

町子の田舎の祖母が、くびまきを買うように持たせてくれた10円は、三五郎によって、一助が読む本『分裂心理学』の支払いに充てられる。また一部は、女中部屋の机の購入資金になって、それは町子と三五郎の交情の舞台になる。また残りは、くびまきではなく、ボヘミアンネクタイとたちものバサミに化ける。三五郎は前者で町子の頭をおかっぱにして、後者でそれを隠す頭切れにする。三五郎が隣人の夜学生と恋に落ちて、失恋した町子は、気ふさぎにネクタイを材料にして肘布団をぬうことになる。おかっぱの髪型をきっかけにして、新しい恋を得た町子は、その相手からようやくくびまきを手にいれるが、くびまきを残して彼は去る。

これはくびまきの系列であるが、他にも分裂心理の解釈の系列や、ミカンの系列などがそれぞれ反復しながら、お互いに干渉し響きあって奇妙にも甘美な世界を作り上げる。

月末の読書会では、この作品を読み合うことになっている。楽しみだ。