大井川通信

大井川あたりの事ども

戦後抒情詩の秀作-清水昶『夏のほとりで』

明けるのか明けぬのか/この宵闇に/だれがいったいわたしを起こした/やさしくうねる髪を夢に垂らし/ひきしまる肢体まぶしく/胎児より無心に眠っている恋人よ/ここは暗い母胎なのかもしれぬ/そんな懐かしい街の腹部で/どれほど刻(とき)がたったのか/だれかがわたしを揺すり/立ち去っていく足音を聞いたが/それは/耳鳴りとなってはるかな/滝のように流れた歳月であったかも知れぬ

だれがいったいわたしを起こした/土地から生えた部族たちが旗をおしたて/村をめぐった豊年祈願の祝祭/祭の中心で旗を支えわたしは/凶作の村道をぎらぎらめぐり/飢えの中心で旗を支えた少年の/麦のような手のそよぎであったのか

だれがいったいわたしを起こした/辺境からさらに辺境へ星を追って流れた老父の笛か/息をひそめた村の廃家で/笛のように荒涼として狂っていた少年の声か/火吹竹であたためた臓腑の飢えの/差し込むような痛い記憶か

ラ・メール海よ恋人よ/わたしたちの寝台は夏の海辺で骨をむき出し/うねりまく鉛の海で純白のシーツが裂ける/そして/今日も口から霧を噴きだし/破船のように摩天楼の街なみにしずむ男がいる

だれがいったいわたしを起こした/都心を狙う夏雷の下/酒ひたる初老の男が食堂の階段を薄暗くのぼりつめ/水びたしの床に昏倒する/額にうっすらとした血がにじみ/その血は/薄っすらとした男の生涯を想わせ/男にいかなる生涯があったにしろ/男は全身の欲望を鼻先で断ち/身を捨てた男の鬚を/客たちのひややかな笑いが逆撫でる/わたしは男の生涯のようなものを食べ残し/疼く背で明滅する雷と雨の人道へ/影を踏んででていった/だれかがわたしを起こし/土砂降りの生涯の向こうに/しめやかに去っていく/気配がある

 

清水昶(あきら・1940-2011)の詩集『朝の道』所収。初出は1969年。近代抒情詩の傑作「石のうへ」を引用したときに、思い出した戦後の抒情詩。傑作とまで言い切れないが、とても好きな作品。

「だれがいったいわたしを起こした」のリフレインは端正で古典的だ。饒舌であること。性や風俗や土俗など、流行の様々なイメージが引用されていること。ややぎくしゃくした比喩や語法。こうしたところが戦後詩たるゆえんだろう。「男の生涯のようなもの」を食べ残して、立ち去っていく自己意識のイメージは、鮮烈だ。