大井川通信

大井川あたりの事ども

『逆転のボランティア』 工藤良 2004

昨年、著者が仲間と主催するイベントに出席した。非行や犯罪に走る少年たちの立ち直りの支援を、いろいろな立場の人間が取り組んでいこうという集まりのなかでの、著者の朴訥として熱意のこもった語りが印象に残った。

本書は、自分の生い立ちから、暴走族のリーダーとなり、少年院を経験し、覚醒剤中毒の泥沼から立ち直るまでの経緯が(さまざまな「悪事」とともに)赤裸々に語られている。しかし、自分が悪の道に巻き込んだ者といっしょに真面目になろうと、暴走族を解散してボランティア団体に改組したのが、2002年の4月。翌年1月にはNHKの弁論番組で優勝し注目を集め全国で講演活動を始め、その次の年での出版である。話題としては旬でも、活動の真価を問うには早すぎる時期だったはずだ。ところで、27歳の彼は本書でこんな風に書いている。

「これからは自分たちだけでなく、日本全国の人に対して、一人でも悪い道にそれたり、悪い道から抜け出そうとしている人がいたら、相談にのって手助けをしてやるのが自分の役目なんだ、まだ自分には続きがあったんだ、と思った」

そうして十数年たった今でも、彼がなお「続き」に取り組んでいることに驚かされる。彼は現在、全国から立ち直りの難しい非行少年を受け入れる更生保護施設を運営し、日々格闘しているのだ。この持続力の背景には、何があるのだろうか。

この本の中では、著者の母親と妻の姿の立ち居振る舞いが印象深い。離婚して一人で著者を育てる母親は、息子のしりぬぐいにおわれながら、黙って彼を見守っている。暴走族の「正月走り」にそっと後ろからついてきて、遠くから見ていたという母親のエピソードはどこかほほえましい。一方、妻は、立ち直りにためらう著者をきびしくしかりつける。ボランティア団体の立ち上げに協力し、メンバーにも加わった小学校の先生は、今でも彼の活動を支えている。著者が要所で人間関係に恵まれて、そこから得たものが大きいのは確かだろう。

彼は、留置場の小窓から差す一筋の光の先に神様がいると直観し、ひたすら祈って改心を決意したと書いている。活動の方向転換をするきつい時期には、神社へのお参りや座禅、滝行などの修行を熱心にとりくんでいる。著者が頼るのは特定の宗教ではなく、庶民の生活に根差す神仏や修験道などの民間信仰だが、こうしたものの力を見くびっていけないと、僕は思う。

彼は少年時代とことん悪に走って、あるとき改心し、こんどはとことん善に向かっている。善といい悪といっても実際には、わずかな違いが分かれ道となるにすぎない。まして利益追求と効率化が支配する僕らの日常には、いやおうなく善と悪とがいりまじっている。自覚的に善を選び、悪をしりぞけるような選択は容易ではない。その時手がかりとなるのは、自分の内なる「神」(それがなけなしの痕跡にすぎなくても)なのだと思う。