大井川通信

大井川あたりの事ども

宅老所よりあい代表の村瀬孝生さんの話を聞く

2年ほど前、特別養護老人ホーム「よりあいの森」をグループで見学して、村瀬孝生さんから説明を受けたことがある。その時は、穏やかでたんたんとしていながら核心を突く語りに強い印象を受けた。著書にサインをいただいたりしたけれども、不勉強の僕は数冊を積読したままだった。

今回、建築家たちの勉強会に村瀬さんが招かれて講演とシンポジウムをするというので、一般で参加してみた。今度こそしっかり著作を読んで、学んだり自分なりに考えたりしてみようと思う。ただ、小さな会場で間近に接した村瀬さんの佇まいが、前回以上に、あまりに不思議な印象だったので、あてずっぽうになるだろうが、とりあえず書き留めておきたい。

たんたんとして全くてらいや気負いが感じられない。言葉少なでも饒舌でもない。適切な言葉数で、実に的確で深い内容を話すのだが、力が入りすぎてもいなければ、まったく肩の力が抜けているというわけでもない。なんというか、まるで「自我」というものが感じられないのだ。

シンポジウムの部になって、他の人が発言しているときの村瀬さんは、無表情というか、まるでとらえどころのない呆けた人のような顔をしている。多くの知識人が示すような、相手の意見に同意したり反発したり、あるいは無関心を示して自分の考えに集中したりする、自我むき出しの態度とは異質だ。

白土三平の忍者漫画で、主人公の剣客が強敵を相手にした時、自分で意識を無くす自己催眠をかけたために、表情から全く手の内が読めなくなり、敵が手も足も出せずに自滅してしまう、という話があったが、そんなとらえどころのない表情なのだ。宅老所よりあいの思想と実践は画期的で独自だが、それ以上に村瀬さんの存在そのものが特別なのかもしれない。

村瀬さんは「看取り」という形で、医学による処方や宗教による解釈と離れて、人間の死そのものと向き合ってきた。また、現代の社会が、人間の死や老化を不当に扱ったり、隠蔽したりする制度の仕組みを知悉して、それを別の方向に組みかえる実践を行ってきた。つまり、本来の宗教家や哲学者や社会改革者が行うべき事柄を、介護の現場で生身で担ってきたのだ。おそらく人間というものの真相に、誰よりも通じてしまったのだろう。せせこましい「自我」など、とうに突き抜けているのかもしれない。

 

 

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