大井川通信

大井川あたりの事ども

人は必ず死ぬものだ、と村瀬さんは言った

30年間、介護の仕事で老いとむきあって、わかったことは、と村瀬さんは口を開く。

人は自分の思い通りにならない、ということです。そうして、人は必ず死にます。死ぬ前に人は、時間と空間の見当を失いがちになる。しかし、人間は自分の住み慣れた建物を血肉化しているから、なんとか見当をつけて暮らすことができるのです。

だから、ついの住処をもてずに、お年寄りをたらいまわしにする今の社会の仕組みは、お年寄りに深刻なダメージを与えるという。住み替えには、お年寄りに周囲の人がつきあう必要があるし、人がつきあえる場所が必要なのだと。それがあってはじめてお年寄りのその人らしさが持続できる、と村瀬さんは語る。

村瀬さんの言葉には、人間というものとその生活の根元への洞察と知恵が凝縮されているように感じられた。ぼけの世界を、現代の医療は認知症という病気として扱う。しかし、村瀬さんはそれを老化や老衰の過程における、時や場所の感覚の混乱としてとらえるのだ。そうした混乱なら、僕たちにも多少は思い当ることがあるはずだし、混乱を収めるのが、今ある暮らしの連続であることも理解できるように思える。

村瀬さんは、死を迎えた人の看取りに関する、こんなエピソードを話してくれた。泊りがけで看取る家族に対して、あるおばあさんが5分おきに、あなたお腹すいてないの、と声をかけるのだという。そうすると別のおばあさんが、あなたそれさっき聞いたばかりじゃない、ととがめる。すると二人のいさかいを注意するおばあさんが出て来る。この同じ三人のやり取りが、5分ごとに繰り返されるのだ。しかし、看取りをする家族は、そんなやり取りにずいぶんと励まされたのだそうだ。

みんな笑った。いい話だと思う。とくに僕には、他人事としてでなく、笑うことができる事情がある。かつて「一過性全健忘」という「症状」を経験したことがあるからだ。その時には、僕も、数分置きに同じ質問を何度も繰り返していたそうだ。ただ残念ながら、その数時間の記憶は全く失われている。調べると、別にそれほど珍しい症状ではないらしい。数分間の短い記憶を、より長持ちする記憶に送り込むギアが、何かの調子で一時入らなくなってしまったようだ。そういうことが、まだ若いうちに人生で何度か起きる人がすくなからずいる。そう納得して、僕はあまり心配せずに、その「症状」を受けとめることができた。

ぼけ、ということも、きっとそうした失調の延長線上にあるのだろう。ただ、それを当たり前のこととして受け入れる人の存在と暮らしの場所が、何より大切なのだろう。