大井川通信

大井川あたりの事ども

ホームとアウェイ

とても優秀な教員の友人がいる。教員仲間でも広く彼の力は知られているが、教師でない僕のような人間が話していても、彼の力が群を抜いているのはわかる。他の先生たちとどこが違うのだろう。ずっとそれを考えていた。

先生は、どちらかというと内弁慶の人が多い。仕事熱心の先生でも、学級や学校が大好きで、研究も仲間内で行いがちだ。その優秀な友人は、外に出向くのをいとわない。積極的にあたらしい環境で自分を試そうとする。そういう姿勢の違いを、ホームとアウェイという言葉で説明できるのに、最近気づいた。

アウェイは、ふだん自分がなじんでいるホームでの習慣や惰性が通用しない。アウェイにでるからこそ、人は驚き、問いを立て、それと解こうとする姿勢が生まれる。いったんその環境になれてしまえば、あらたなアウェイを求めて外に出るから、さらに思考の経験が積まれることになる。

こんな風にして、ホーム志向の他の教員と、優秀な友人との力の差が説明できるのだが、それが教員としての力の差に直結するのは、なぜなのか。それは、学校で子どもたちに、アウェイである社会に出ても通用する力を身に着けさせる必要が、いっそう高まっているからだ。変化が激しい世界の中で、自分で考えて生き抜く力を、ホームでぬくぬくとしている教員が教えることはできないだろう。

だから、若い教師たちにアドバイスすべきなのは、常に学び続けるという抽象的な言葉ではなく、自分にとってアウェイの場所をみつけて飛び込む姿勢と工夫ということになる。友人も、そんな僕の結論に同意してくれた。

しかし、話はここでおわらない。宅老所よりあいの村瀬さんの話では、お年寄りは、住み慣れた家を離れるリロケーションギャップによってダメージを受け、その人らしさを失ってしまうという。ホームをはなれアウェイに飛び込む、というのは、あくまで強者の論理であり、人生の上り坂の時にのみ可能な態度なのだ。人間は最後には、ホームに血肉化した自分を頼みの綱とするしかなくなるのだろう。

友人は、今春、学校を離れて、東京で学者としての道をあらたに歩み始める。せっかく研究に人生をささげるのなら、上り坂も下り坂も含めて、人生をトータルにとらえられるような豊かな学びのメージをつかみとってほしいと思う。今週末、最後に彼と話すときには、そういう話をしてみたい。