大井川通信

大井川あたりの事ども

『学びとは何か』 今井むつみ 2016

一読して、著者がとても誠実で優秀な学者である、というのはまるで門外漢の僕にも感じられる。新書の入門書として、とてもていねいに、わかりやすく書かれている、というのもわかる。かかれている主張も、どうみても正しいものだ。

しかし、どうしたものだろうか。この認知科学というのか、教育に対して声高にものをいう「科学」のありようは。たいてい、巻末にこれ見よがしに英文の参考文献が列挙される。エビデンスと称して、まるで文化も違う外国の、条件が限定された「実験結果」が金科玉条のように引用される。生硬な翻訳語のキーワードが、それをわかりやすい日本語に言い換えようとする努力ぬきに、ずらずらと並べられる。そのあげくに、「学び」や「教育」に関する、およそ実践的でないお説教が、あれもこれもと付け加えられる。その内容たるや、子どもと多少真剣に向き合っている親や教師なら、だれでも気づけるようなことなのだ。この本も、こうした印象を免れてはいないような気がする。

知識を、頭で知っているたけの、実際には使えない、事実に関するものと考えるのは間違いだ。知識は、自分で発見して使いこなしながら、ダイナミックに再編を繰り返し成長する生きたシステムである、という著者の主張の中心は正しいと思う。言い回しは多少複雑だが、誰もが勉強や仕事や生活の現場で経験している内容だ。

しかし、著者はその知識観を、「探究エピステモロジー」というガチガチの言葉に「置き換え」てしまい、以後その言葉が本書のなかで大手をふるうことになる。だから終章での、探究人を育てるシンプルな鉄則までが、「探究エピステモロジーを持つこと」になってしまう。一般の読者が、この用語を、単に知識として仕入れるだけでなく、自らの知識の生きたシステムに組み込むことを期待しているのだとしたら、あまりに楽観的すぎる。あるいは、学問の輸入体質が、いかに日本人の「知識」観に悪影響をもたらしてきたかの自覚が足りなさすぎるだろう。

たとえば、教育現場では、学者たちの唱える目新しいカタカナ言葉が、上位下達のキーワードとして流通し、現場での生きた知識とはならずに次々に打ち捨てられる、という現実がある。学びや教育についての具体的な問題解決は、その現実に向かい合い、適切に問いを立てることからしか始められないと思う。