大井川通信

大井川あたりの事ども

『箱男』 安部公房 1973

学生の頃読んだときは、初期の作品が好きだったこともあって、よくわからないという印象だった。今回は、興味をもって読み通すことができた。

手記やエピソードの断片をつなげた形になっているのだが、読み進めることで、断片が組み合わさって、明確な物語の像を結ぶ、というようにはなっていない。個々のピースは、お互い離反するような力が働いている。誰が書いたのか、どこまでが事実でどこからが妄想かもはっきりしない。しかし、むりやり物語のアウトラインを抽出するとすれば、こんなふうになるだろう。

段ボール箱にこもって生活する男(箱男)が、空気銃で撃たれて負傷する。見知らぬ女からお金をもらい病院にかかると、その医者が狙撃手で女が看護師だった。そこで女から、箱を買い取りたいと申し込まれる。実は、その医者は偽医者で、戦争中上官だった病気の元軍医を助けて、看護師の女と三人で同居生活をおこなっていた。偽医者はこの生活を解消するために、元軍医を殺害し、事故死した箱男に見せかけることを計画する。そのため本物の箱男の存在を消す必要があったのだ。

作品が発表されたのは、1973年。オイルショックの直前で、戦後の社会が大きな曲がり角に差し掛かる時期にあたっている。近代社会が、ポストモダンと呼ばれる消費や情報を中心とする社会へと舵を切る直前の時代だ。30年前の戦争の記憶が、エピソードとして自然に語られているのが、新鮮だ。戦争を経験した世代が、まだまだ社会の中心だったのだ。

個の空間への偏執。見ることのへ欲望。アイデンティティの希薄化と匿名の優位。大きな物語の解体。大量生産と偽物の時代。今から振り返ると、「箱男」という虚構は、ホームレスの段ボール生活という生々しい現実の似姿でありながら、新しい時代のリアリティを先取りする絶妙な立ち位置をもっているように思われる。