大井川通信

大井川あたりの事ども

『認知症をつくっているのは誰なのか』 村瀬孝生・東田勉 2016

二年前、「よりあいの森」を見学した時、買った本。ようやく読了した。村瀬さんの講演を聞いたばかりでもあり、本の内容は、頭にしみ込むようによく了解できた。

この本を読むと、介護の問題や認知症の問題、薬害の問題がよくわかるし、それが相当に良くない状況であることを理解できる。だから、共著者の東田さんも、末尾に文章を寄せている三好春樹氏も、その文章によると宅老所よりあいを始めた下村さんも、かなり怒っている。怒るべき現実に直面しているときに怒るのは当然だ。この本の中で、村瀬さんも、お年寄りが様々な現実に怒るのが当然だとして、怒りや混乱に付き合うことが大切だと話している。(ところで、村瀬さんは、教育の世界などでよく使われる「寄り添う」という言葉を使わずに「付き合う」といっている。僕は前者のねっとりとした語感が嫌いなので、対等の人間同志の実際のありようを示す後者がずっといいと思う)

ただ、社会問題や不正に対して怒る人の中には、それへの批判にのめりこんで、敵と味方を区分けし、怒りや許さないという気持ちを共有しろと他者に迫る人もいる。特に批判が運動になったときにはその傾向が出がちだ。村瀬さんは、共著者たちとほとんどの認識を共有しているようだが、怒りのトーンがだいぶ低い。村瀬さんもかつては怒っていたのかもしれないし、現在でも内面では怒りの炎を燃え上がらせているのかもしれない。しかし文章からはそれがうかがえないし、実際に話を聞いてみると、怒りどころか「自我」の手ごたえすら感じられなかったりする。それはなぜだろうか。

村瀬さんは、時間と空間のズレが起きてしまったお年寄りが、自分の主観の世界を生きながら、長年培った習慣と分別でそれを乗り越える姿を尊重する。それがお年寄りの生活なのであり、その生活ができるだけ続くようにするのが支援だという。お年寄りは自分の思い通りにならない現実と折り合いをつけているのだし、支援する側も、自分の思い通りにはいかないお年寄りの姿に付き合うことになる。そういう現場に、村瀬さんはきっと深々と身を沈めてきたのだろう。

ここからは思いっきりの空想だ。かつてない高齢社会の到来と、コミュニティや家族の崩壊という史上初めての事態に直面して、日本社会は混乱し、それと折り合いをつけるために従来の分別でなんとか対応しようとしている。そこには様々なほころびが生じるし、それを声高に批判することは可能だろう。しかし、村瀬さんはお年寄りに対するように、この社会の泥縄式の思考錯誤にたいして、根気よく付き合おうと腹をくくっているのではないだろううか。老いていく、この社会への支援として。