大井川通信

大井川あたりの事ども

『お目出たき人』 武者小路実篤 1911

武者小路実篤(1885-1976)の二十代半ばの作品。付録として五つの小品を収録した出版当時と同じ内容で、新潮文庫に収められている。

手記の形をとった一人称の文体だが、実にストレートで主人公の思いを自在に、くもりなく語っている。今読んでも、少し言葉使いが古びているという不可抗力の部分をのぞいて、表現内容が直に伝わってくるような透明度の高い文章だ。いきなり「自分は女に飢えている」というフレーズが繰り返されて驚かされるが、露悪的な効果をねらったのでなく、あくまで自己を客観的につづった理詰めの文体であることがわかる。著者は、この7年後には「新しき村」の建設を図るなど多方面で活躍し、生涯に何百冊もの本を出版しているが、その原動力になったのが、この平易な思考する文体であることが想像できる。

主人公は、近所の顔見知りの少女に恋をして、実際に話す機会も持たないのに、勝手に理想の伴侶だと思い込んで、知り合いを介して結婚を申し込むが、先方の家からはいい返事がもらえない。その間の気持ちの高揚や揺れが事細かに語られる。時々、相手の通う女学校の付近をうろついたりするのだが、偶然出会った時などは、目を合わせただけで相手が自分と同じ気持ちであると思い込んで有頂天となる。しかし、この独り相撲は、相手の女性の結婚によってひとまず終結する。

今だったら、主人公の態度は「ストーカー」だの「童貞」だのとさんざんこき下ろされるところだろう。僕自身は、昔気質で不器用な方なので、むしろ主人公に同情して身につまされるところが大きいが、彼の女性に対する態度にほめられるべきところがあるとは思えない。しかし笑うべき振る舞いの内側にいながら、それを自己分析して「お目出たき人」と自己批評しつつ、しかし自らの肉体から離れないという文体は、ただものではない。生活しつつ、同時に思考する文体とでもいおうか。

主人公の振る舞いは、時代の慣習にとらわれたこっけいなものに見える。しかし、男女関係がどんなにスマートになっても、恋愛はこっけいな幻想を免れない。主人公の身体をはった思考は、現象の表皮を突き破って、恋愛の幻想の生きた本質をつかまえているようだ。

「お目出たき人」の主人公が書いたものと注釈された付録を注意深く読むと、自己中の失恋男を描いて能天気に擁護しているかのような著者の、意外な思考の幅広さと徹底性に気付くことができる。「二人」では、実際に結ばれなかった理想の男女の間には「無意識の共鳴するあるもの」が永続するとしているが、これは「お目出たき人」がおめでたいままにたどりつく思考の極限だろう。「無知万歳」では、「お目出たき人」の未来を知る神々の視点から、彼の徹底して散文的な将来の現実が明かされて、彼のおめでたさがそれらへの「無知」に基づくことが無慈悲に暴露される。「生まれなかったら?」では、そもそもお目出たくあるための根拠である「自分」という存在が、疑いにかけられる。「亡友」では、若死にする友人という設定で、切実な死の前で、お目出たい恋愛感情がどう化学変化するかが考察される。「空想」では、表現行為の支えとして、お目出たい幻想が不可欠であることを印象的に描く。

こうしてみると、この小説は、お目出たさ(自己本位の恋愛感情)の徹底解剖という様相を呈している。この具体的な作業を通じて、著者はお目出たさという観念の閉域から一歩抜け出すことができたのだろう。