大井川通信

大井川あたりの事ども

山本健吉の『現代俳句』

昨年の夏ぐらいから少しずつ読んで、ようやく読了した。もとは1952、53年に出版されていて、学生時代に愛読していたのは、1964年の角川文庫版。今回は、1998年の角川選書版の『定本 現代俳句』を読み通した。

ちょくちょく拾い読みをして、面白いと思いながら、きちんと通読していない本というのがある。有名どころでは、マルクスの『資本論』やハイデッガーの『存在と時間』など。まるで読んでいないが、できたら目を通してみたい本なら、はるかにたくさんある。人生の限られた時間で、それらに手をつけたいと思えるようになった。山本健吉(1907-1988)の『現代俳句』は前者の本だ。

山本健吉は俳句の実作はしていない。しかし一流の実作者をうならせるような批評を書く。定本版の前書きでは、俳人飯田龍太が、近代俳句の三つの柱として、正岡子規高浜虚子とともに、山本健吉の名前をあげている。僕は、もともと文芸評論が好きだったので、そういう山本健吉のありかたにあこがれていたのだと思う。

久しぶりに手に取って、まず感じたのは「及び難さ」だった。当たり前のことではあるが、このような語彙と感覚と教養の背景をもった文章は、今さら手の届かないところにある。しかし読み進むにつれて、今の自分でも学んだり感応したりできるところはあるように感じられた。できれば、この先も繰り返し読んでいきたい。

定本版では、角川春樹に関する文章がかなり追加されていて、どうかと思ったのだが、本文の厚みのある犀利な分析に比べて、軽くのびやかな文章で、意外と楽しめた。ああいう破天荒な人物と付き合えたのも、山本健吉のふところの広さなのかもしれない。