大井川通信

大井川あたりの事ども

大井川歩きのこと

お年寄りは時間と空間の見当を失いがちになる、という村瀬孝生さんの言葉を聞いてから、ずっとそのことが気になっている。

僕が、大井川歩きのルールを決めたのは、4年前のことだ。自宅から、歩いて帰ってくることのできる範囲を、特別な自分のフィールドとする。もちろん、仕事や生活では、クルマや電車は使うわけだし、それは否定しない。ただ、大井川歩きという活動においては、実際に歩いて帰る、という振る舞いをしばりとする。フィールド内だからといって、5分で車で乗り付けたりしない。2キロ先の場所には、往復2時間かけて歩いて訪ねる。4、5キロ先だと、半日以上かかるから、体力的にもそのあたりが限界になる。

そして、その狭い範囲内については、自分が責任をもつ。山や川といった地形も、そこに住む鳥や動物や植物も、寺社や石仏や古い集落に象徴される過去の人々の営みも、現在の人々の暮らしも、ひとしなみに引き受ける。少なくとも、その気概を持つ。実際のところ、親しみをもって、他人事としない、という程度だけれども。

実際にやってみると、そこが少しも狭くない、ということに気付いた。道ばたで出会って話し込んだ人から、驚くような事実を聞くことができたりもした。土地には多様な自然の営みと、古代から現代にいたる人々の歴史が隠されていた。かつて村落共同体で一生を暮らした人々にとって、歩ける範囲というのが、ほとんど世界のすべてだったはずだ。今では、大井川歩きが、ささやかなライフワークになるという予感がしている。

ところで、村瀬さんの話を聞いて、自分のこのふるまいが、生活拠点を中心とする空間と時間を、具体的に血肉化したいという無意識の欲望に支えられていることに気付いた。中年をすぎて老いを意識するなかで、現代の生活であいまいとなりがちな空間と時間に対する見当識を安定化させたい、という防御本能が働いているのだろう。

たとえば、このブログでも、無意識のうちに作品には必ず年号を振り、作者の生年や没年を書き込んだりしてしまう。どうやら、そのつど時間軸を押さえずにはいられないようだ。