大井川通信

大井川あたりの事ども

「まつのひと」 鈴木淳 2018(第13回津屋崎現代美術展)

旧玉乃井旅館での現代美術展を、黄金週間で帰省中の長男とのぞいてみる。駆け足で観るなかで、鈴木淳さんの作品が心をとらえた。

鈴木さんは以前、神社を舞台にしたプロジェクトで、石柱などに刻まれた寄進者の名前から、その人のことを調べて、その場に掲示するという作品を作っている。僕は、寺社などで古い石造物を見るのが好きだが、そこに名を刻まれた一人一人はどうしても陰に隠れてしまう。その名前の主に光を当てるのは面白いと思った。

狭い和室の壁際には、たくさんの古い写真が並べられている。おそらく玉乃井の関係のもののコピーなのだろうが、本物に見える。どの写真も、(おそらく任意の)誰かの輪郭がきれいに切り抜かれている。写真の一部を切り取って捨てるということは、背後に特別な愛憎が感じられて、ぎょっとするものだ。だから、古い集合写真でまどろむ人々の中で、切り抜かれてすべての情報を欠落した人物の方が、存在感を際立たせている。

その暗い欠落の一つ一つに、鈴木さんは、たんねんに松葉を立てている。その茶色く枯れた松葉が、ちょうど二本足でたつ人間に見えるのだ。それぞれ大きさも形も微妙に違う「まつのひと」は、写真からむっくりと起き出した、その人自身にみえる。痩せさらばえた身体を傾け、ねじり、叫び、いっせいに時の経過の痛みを訴えているようにも見える。

ふと天井に目をやると、そこに縦横に張りわたされた紐には、無数の枯れた松葉が、いや「まつのひと」が、まるで魂を抜かれたむくろのように、ずらっと吊るされているのだ。表情を失った彼らは、具体的な記憶の痛みから解き放たれた、天上界の住人だろうか。

部屋の床の間には、松の花のカラー写真が拡大されて張り出されている。受粉を待つ花の姿は、毒々しくグロテスクでさえある。花の周囲には、青々と脂ぎった松葉が、ぎっしりと生えそろっている。誕生と老い、生と死の鮮やかな対照を示していて、部屋に身をひそめる「まつのひと」の亡き骸たちをまるで荘厳するかのようだ。

旧玉乃井旅館の建物は、建築後百年以上の間、目の前に広がる玄界灘からの荒波や強い海風に耐え忍んできた。玄界灘の海岸線には、数十キロにわたり、人工的に松林が作られて、荒海から人々の生活を守っている。その松林も、近年は松くい虫の被害であちこちで松枯れが目立つようになった。こうした松をめぐる生命の攻防の場所に、「まつのひと」の生と死の物語はいっそうふさわしく思える。