大井川通信

大井川あたりの事ども

人を忘れるということ

うろ覚えなのだが、心に引っかかっていることがあるので、書いてみる。

ある高名な宗教学者の文章にこんな部分があった。彼は、死や老いについて繰り返し書いたり、語ったりしている人だ。アメリカ大統領の長年の友人が、あるときその元大統領が痴呆によって、自分と会っても誰だかわからなくなってしまった時に、元大統領が死んだと考えて一切の付き合いをやめた、というエピソードを引用しながら、「人格崩壊」と死との関係を考察しようとする文章だったと思う。

宗教学者は、元大統領の友人の態度を批判するのではなく、それを一つの考えと認めながら論をすすめていた。しかし、そのことを問題にしたいのではない。宗教学者が、元大統領の友人と同様に、長年の友人をそれと認めることができなくなることと「人格崩壊」とをストレートに結びつけていて、それを全く疑っていないところに違和感をもったのだ。そういうところに、知識人という記憶力や思考力の優秀さをよりどころにしている人間の狭さを感じてしまう。

僕の義母も晩年、入院中一時的に、娘に対して、どなた様ですか、と尋ねたことがあって、もちろん娘である妻はとてもショックを受けていた。しかし、その後、だいぶ回復したと記憶している。そこまではなくても、年配者が同じ話を何度も繰り返したりすると、この人大丈夫だろうか、という気持ちになるものだ。しかし、自分がある程度の年齢になり、物忘れで同じ話を繰り返しがちになると、それが当たり前の生理現象であることに気づくことになる。

長年の友人をそれと認められなくなる症状にも、いくつかの段階がありそうだが、それも生理現象の階段を下るプロセスの一部なのであって、「人格崩壊」などという究極の事態でくくれるとは思えない。

僕が今、聞き書きで何度か訪ねているおばあさんも、おそらく僕のことをはっきり覚えているわけではないかもしれない。誰に聞かれたなんてこととは関係なく、昔のことを思い出して話したという、あたたかい時間の積み重ねの記憶がぼんやり残っているだけかもしれない。しかし、かりにそうだとしても、いっしょにテーブルを囲んで話せば、楽しく語らうことができるし、そこには「人格的交流」が十分に成り立っているという実感がある。