大井川通信

大井川あたりの事ども

受け入れる勁(つよ)さ

二カ月くらい前に、安部さんから、「玉乃井塾」を一度開きたいと声がかかった。

安部文範さんと知り合ったのは、今から20年くらい前のことになる。「福岡水平塾」という差別を考えるグループの月例会だった。差別問題の元活動家が中心だったが、メンバーの中には新聞記者や教員などいろいろな人がいた。異色なところでは、『セカチュー』がベストセラーとなる前の小説家の片山恭一さんが姿を見せる時もあった。

安部さんは、当時美術コーディネーターや翻訳家を名乗っていて、新聞に美術評や映画評を書いていた。僕より10歳ばかり年長で、学生運動の荒波を潜り抜けてきた世代だ。その体験から昇華された格率を大切にしているのが、つきあいを深める中でわかってくる。

正義や社会問題から身を遠ざける。「代理告発」はせずに、当事者としてのみ考える。後で聞くと、そういうことが現実に可能な場として、水平塾との出会いがあったのだという。水平塾の活動が無くなったあとで、僕は個人的に、安部さんの住む旧旅館玉乃井で、個人塾のような集まりを開かないかと提案した。それは形を変えて、「9月の会」という勉強会になって、断続的に10年以上続くことになる。

水平塾以来考えてきたことだから、と安部さんが渡してくれたレジュメの表題は、「受け入れる勁さ」というものだ。そこには、当事者として世界に向き合うという格率を深化させてきた言葉があった。

 

「不幸があることはどうしようもない。世界は不条理そのものだ。理不尽は、悪は、世界のあり方として避けようもなくあり続ける」

「受け入れる勁さを持つにはどうしたらいいのか、という問いには明解な答えはないだろうが、でもあるひとつの答えはだせると思う。くりかえされる日常のなか、生活の細部にも穏やかな視線を送り、詳しく知ること、深く愛すること。そこには家族への思いやり、家事への尊敬もはいってくる。〈仕事〉に力を使い果たすのではなく、日常生活にこそ力をいれ、丁寧にかかわり、ひとつひとつをたいせつにし、時間をかけて具体的に、身体として関わっていく。つまり生きるということにきちんと向きあい具体的に関わること。そういうなかからほんの少しずつつくられていくものでしかないだろう」