大井川通信

大井川あたりの事ども

『新哲学入門』 廣松渉 1988

5月22日は廣松渉の命日だから、追悼の気持ちで、さっと読み通せそうな新書版の入門書を手に取った。欄外のメモをみると、以前に三回読んでいる。今回は、20年ぶりの四回目の読書となった。

廣松さんは、僕が若いころ、唯一熱心に読んだ哲学者だ。他の有名哲学者にも手をだしたけれども、読みかじったという程度である。廣松さんの著作を通じて、哲学というものを知ったことを、今では幸運だったと思う。そうでなければ、哲学を自ら思考するものとは考えずに、有名哲学者の言葉や論理の口まねをすることだと勘違いしていたかもしれない。

廣松さんの本は、たとえ入門書であっても、独特の漢語と翻訳語が多用されていて、一見とてもとっつきにくい。哲学の伝統はもちろん諸学の成果を援用しながら、独自の理論をつくりあげる。しかし、事象そのものから出発して、世界の在り方を解明しようとする手順は、実はおどろくほどていねいで、どこまでも粘り強い。

「例えば、小学生時代の友人にバッタリ会ったとします。瞬間的に同定でき、そこでの知覚像とは別に表象像など浮かばないのが普通でしょう」(49頁)

何日か前のブログで、小学校の級友と遭遇したことを書いたばかりなので、この文章には驚いた。僕は級友を「同定」できたけれども、級友はそれができなかった。僕はその小さな事件に何かがあると感じて、勝手な連想を書き連ねたが、廣松さんは、この事例から出発して、認識や意味についての緻密な説明をつみあげていく。ちなみに、「表象像」とは、級友の小学校時代の写真やイメージといったもののことで、たしかに僕は、そんなものを思い起こす必要などなく、今の風貌の彼を瞬間的に級友と認めたのだ。

「今、例えば、農夫が孤独に畑を耕しているとします。畑は彼自身の拓いたものではなく、農具も彼自身の作ったものではなく、農耕動作も彼自身の案出したものではありません・・・彼の〝孤独な農作業〟は、実態において〝多くの人々との協働作業〟とも謂うべきものになっております」(161頁)

こうした田園の風景は、今僕が大井川歩きで向き合っているものだ。僕自身も、自分の孤独な歩みを、多くの人々との協働作業という場所につなげたいと考えている。そういうときに、我々の目の前に広がる世界の真相を説明しつくそうとした廣松渉の仕事は、きっと多くのヒントを与えてくれるにちがいない。