大井川通信

大井川あたりの事ども

タコウインナー、あるいは見立てるということ

保育園の園庭で、三歳くらいの女の子が、手のひらに、いくつもの小さな花弁を載せて、それを見せに来る。「タコういんなー」

赤い花弁を伏せた姿は、広がった花びらがタコの足のようで、なるほどタコ・ウインナーそっくりである。女の子の親は、ウインナーソーセージの切り込みを入れて、お弁当にタコウインナーを入れてあげるのだろう。

僕は女の子からそれを一つもらい、あとで園の先生に確かめると、ザクロの花だそうだ。僕だけでなく、周囲のたくさんの大人が、そのタコウインナーを見せられているのもわかった。まさに「見て、見て」である。

ザクロの花弁は、タコというより、タコウインナーの方によく似ている。そもそもタコウインナーは、ソーセージをタコに見立てたものだろう。女の子は、さらに、園庭に落ちている花弁を、タコウインナーに見立てたのだ。女の子も、その花弁をタコウインナーそのものと思っているわけではない。それなら、口に入れるはずだし、食べられないとわかれば、それが勘違いと気づくはずだから。彼女は、その見立てを発見し、楽しんでいるみたいだ。

世界が、見立てによって成り立っていること、無数の見立てによってくみ上げられた壮大な伽藍であることを教えてくれたのは、廣松渉の哲学だった。廣松自身は、そんな言葉使いはしていないが。

廣松渉の独特の言い回しは、こんな風である。世界の仕組みは、四つの項のつながり(「四肢的構造連関」)として取り出すことができる。あるもの(ザクロの花)をそれ以外のあるもの(タコウインナー)「として」見ることができるためには、ある人(幼児)が、それ以上のある人(タコウインナーがお弁当に入る家庭の子ども)「として」育てられていることが必要である。

あるもの、それ以上のあるもの、ある人、それ以上のある人、の四つの項の連動の要は、「として」(見立て)にある。廣松の考え方は武骨で、記号論のようなスマートさはない。しかし、はるかに根底的に世界のダイナミズムをつかむ道具となると実感している。