大井川通信

大井川あたりの事ども

『視線と「私」』 木村洋二 1995

保育園で、園児たちが口々に「見よって、見よって」と叫ぶ姿を見て、20年以上前に出版された、この本のことを思い出した。

僕みたいな独学者は、行き当たりばったりに本を読んでいく中で、自分が生きて考えていく中で、本当に役に立つ論理を見つけていく。学生時代に出会った廣松哲学がそうだし、その10数年後に出会ったこの本もそうだ。有名、無名は関係ない。

あとで調べると、著者は、関西の心理学者を中心にしたソシオン理論の研究グループに所属していることがわかり、文献を少し集めてみたのだが、やはり一番しっくりくるのは、社会学者の書いたこの本だった。

問題は、私とは何か、である。その私とは、もちろん他者たちとの関係のネットワークの中に生きる存在である。このことの詳細な事実は、様々な研究や思索によって明らかにされてきている。この本(ソシオン理論)がすばらしいのは、その簡潔なまとめ方である。人間や社会を理解するために、最低限必要な部分だけを残して、あとはざっくりと切り捨てた、そのモデルの単純さである。

私とは何か。第一の要素は、「他者の像(姿)」である。第二の要素は、「他者から見られた、私の像(姿)」である。そして第三の要素が、「私にとっての私の像(姿)」となる。常識的に言えば、本当の私(私Ⅲ)を育てるのに、他者をモデル(私Ⅰ)にしたり、他者から承認(私Ⅱ)されたりすることが、手段として有効である、という理解になるだろう。しかし、ソシオンでは、その三つは、同じ価値をもつ私の構成要素であり、むしろ、順番や働きにおいて、第一と第二の要素が重要なものと考えられるのだ。

確固とした私という実体があって、それがたまたま他者を模倣したり、他者からの承認を求めたりする、ということではない。他者の模倣や、他者からの承認ということ自体が、かろうじて私の姿をつかませる。「見よって!見よって!見よって!」という園児たちの叫びは、いまだ不確かな自分に形を与えようとする、必死の試みなのだ。

木村洋二さんは、笑いの研究でマスコミに取り上げられたりしたが、2009年に他界されている。学恩に感謝したい。