大井川通信

大井川あたりの事ども

二人の法学者

もう何か月か前の話だが、同じ日の新聞に、ゆかりのある二人の法学者の記事が出ていた。

僕は法学部の出身だけれども、学生時代に購入した法律学の教科書や専門書で手元に残しているのは、一冊しかない。当時、学部の看板だった刑法学者のN教授の本だ。N先生の子どもが大学院にいるという話は聞いていたが、息子さんは母校で憲法学者になっていた。今年になって高速道路での不慮の事故でなくなり、追悼の記事は、彼のリベラルな姿勢を評価するものだった。

もう一つの記事は、民法学のK教授の最終講義を紹介したもの。まだ教授が少壮の研究者の頃、僕は講義を聞いたり、ゼミに参加してレポートを書いたりした。後に大学の総長になり、現首相肝いりの審議会の座長をしたりしていたから、まあリベラルとは言えないだろう。記事で見る限り、最終講義の内容もごく実務的なものだったようだ。

長い間、せっかくの大学で実学を専攻したことを後悔していた。社会の中で、実用的には役立った側面はあるが、入学後、自分の関心は別のことにあるのを痛感したからだ。その関心は、結局独学で学ぶしかなかった。

しかし、最近になって、自分が本を読むときに、法解釈学で学んだ方法を下敷きにしているのではと思い当ることがあった。以前から、思想好きの仲間と一緒に本を読んでも、どこかズレを感じることが多かった。一言で言うと、無意識にとてもクセの強い読みをしてしまう。

短い条文を、判例、通説、少数説というような解釈の歴史のなかで読み解き、背後にある体系と関連づけて、首尾一貫性や合理性の観点から解釈の優劣を判断すること。これは相当しつこい読み方だ。

人生にはどんなことでも無駄なものはないと、少し救われたような気になった。