大井川通信

大井川あたりの事ども

『今を生きるための現代詩』 渡邊十絲子 2013

5年ぶりの再読。老練の荒川洋治の著作を読んだあとだからか、著者の「詩人」としての自意識の固さが、はじめは気になった。「詩はよくわからない」という人は、詩の大切さがわかっているくせに、子供の感想みたいなことしかいえないものだから、自分を守っているだけだ、みたいな世間への敵意むき出しの言葉もある。一貫して、詩と詩人のすばらしさとともに、詩を読むということの特別さが語られており、国語の教科書や詩の授業、そこでの凡庸な読みが攻撃の対象となる。

僕は、どちらかといえば、国語の教科書を通じて詩を好きになった人間である。あと、詩の一行一行を説明した学燈社のアンソロジー。解説の豊富な旺文社文庫。そこでまず、朔太郎や光太郎、達治や丸山薫、村野四郎らを好きになった。著者は、学校教育が詩嫌いを作っているというが、多くの人にとって、詩というものに触れる貴重な機会になっているという面の方が大きいと思う。

しかし、それほどすばらしい現代詩が、ここまで読まれない原因が、学校教育とわかりやすさのみを求める世間の風潮という他責的なものだけ、というのはどうなんだろうか。現代詩というジャンル自体や、現在詩人をなのっている人たちの作品に問題はないのか。荒川洋治の本には、そのあたりにも批評的な視線が届いていたと思う。

とはいえ、現代詩への手引きとしては、荒川の本よりはるかに役に立つだろう。17編の作品がほとんどまるごと引用されているから、現代詩の詩集として読むこともできる。著者の体験から書き起こされた文章は読みやすいし、詩を読む上でのアイデアも豊富で、(詩人らしからぬ)論理的な書きぶりだ。

ところで、著者は、詩は解釈するものではない、という正当な主張から始めているのだが、後半で、比較的新しい詩人である川田絢音井坂洋子の作品を扱う時には、かなり一義的な読み解きを与えているように思える。著者がそうせざるを得なかったところに、現代詩というものの混迷や難しさがあるのかもしれない。

おそらく、高度な読み解きの面白さとセットにあることで、かろうじて作品として成立する、という傾向にあるのではないか。引用された作品を見ても、前時代の作品の方が自立した力を放っているようだ。