大井川通信

大井川あたりの事ども

例外的な少数者の思想

学校教育は、十把ひとからげに批判されることが多い。特に、その集団主義的で鈍感な部分が、知的に早熟な子どもたちにとっては耐え難いから、彼らにトラウマのような恨みをあたえてしまいがちだ。知的に早熟な子どもは、社会的にも知的にもエリートとなる可能性が高いから、影響力や発信力のある立場で、大人になってから学校教育批判を展開する。

以前に『滝山コミューン1974』という本が評判になったことがあった。東大の政治学者である著者は、公立小学校で集団主義教育を受けた経験を、「コミューン」からの迫害と「妄想」(僕にはそうとしか読めなかった)し、ほとんど個人的な恨みを果たすように当時の関係者や背景にあった思想を暴いていく。この本は、公平に見て、戦後教育の一局面を描いた本ではあっても、その本質をつかんだものではない。しかし、知的エリートが占拠する論壇では、驚くほど歓迎されて、評価も高かった。

この本のなかで印象的なのは、当時の同級生のほとんどが、著者がこだわる出来事について記憶していない、というエピソードだ。著者は成績優秀な「強者」だったから、多数派が「弱者」へのいじめを忘れている、という事態とはちょっと違う。集団主義への感度の問題だと思う。僕は同時期、同じ東京の多摩地区の公立小学校に学んだから、多少雰囲気はわかるのだが、僕自身は、感度の鈍い彼の同級生の側の凡庸な子どもだった。

戦後教育は、保守的な層からは、日本の荒廃の諸悪の根源のように言われ、批判的な層からも、愚鈍な集団主義として扱われる。しかし、今現役の人間は、全員が戦後教育を受けて育っているはずだ。正確な言い回しは忘れたが、内田樹が、そんな愚劣な戦後教育を受けながら、例外的にあなたのような優れた人物が生まれたのはなぜか、という皮肉な問いを発したことがある。少なくとも、あなたのような優れた人物を生み出した手柄を認めてあげるべきじゃないのか、と。

教育は、とんでもなくたくさんの人々が、とんでもなく大きなエネルギーと時間をかけて、バタバタとおこなう営みだ。うまくいく部分もあれば、ダメになっている部分もある。僕たちと同じように、愚劣で、卑しく、許し難い場面もあれば、僕たちと同じように、良いこと、美しいこともある。むしろマーケットが猛威をふるう実社会ではありえないような善意が、自己主張なく存在していたりもする。つまらない結論だが、真実はそういうことだと思う。

もう一つ。合理的に正しい制度が、優れた成果を生み出し、そうでない仕組みが、そうでない成果を生み出すというわけでもないのが、人間のというもののねじくれてやっかいなところだろう。僕の若い友人で、社会科のとても優れた教師は、学校では、昔は一般的だった、とてつもなくつまらない社会科の授業を受けてきたという。彼を社会科の授業名人にしたのは、その全く無駄のような膨大な時間だったのかもしれない。